  |
所在地:門真市宮野町
最寄駅:京阪本線「大和田」下車、北へすぐ、「堤根神社」北側 |
茨田の堤は古事記・日本書紀に記述がみえる最古の堤防で、5世紀頃淀川の洪水を防ぐため、渡来人などの技術を用いて築かれている。
『日本書紀』仁徳天皇11年10月条に「将に北の河(淀川)の浸水を防がんとして茨田の堤を築く」とあり、淀川の浸水を防ぐために茨田の堤を築いた事がみえ、『古事記』仁徳天皇段には「秦人を役だちて茨田堤及び茨田三宅を作る」とある。渡来人の力を借りての堤の築造は困難な工事であったことは想像に難くない。この地の近くの寝屋川市には
秦町や太秦などの町名が残っており、仁徳天皇の命を受けた茨田一族がこれらの渡来系の秦氏の技術を借りて堤を作ったものと思われる。
茨田の堤の完成により河内平野の農耕は急速に発達して行ったが、堤はその後も度々決壊し、その都度修築されている。淀川の堤防の決壊の記録は百数十回にも及ぶとのことであり、近世になって豊臣秀吉の文禄堤の築造、淀川や大和川の治水工事が進むにつれ、この茨田の堤の役目も終わった。
この僅かに残された「茨田の堤跡」は1973年(昭和48年)大阪府の史跡に指定されている。
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[参考資料] 『現地説明板』大阪府教育委員会、門真市教育委員会 |
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堤根神社の側から見た「茨田の堤」。
立ち入ることを防止するためか、塀には棘の有る索条網が取り付けてある。 |
神社の境内に建てられている「史跡伝茨田堤」の碑 |
上の写真の反対側にまわり撮影した「茨田の堤」。
扉には錠が掛けられてあり、金網の中には入ることが出来ない。
右側の解説板には「伝茨田堤」とあり、上記の石碑と共にわざわざ「伝」という字が挿入されているのは、「茨田堤」と100%断言することに、文句を言う人でもいるのだろうか。 |
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上記の巨木のある「茨田の堤跡」から少し離れた神社の北西側にある「茨田の堤跡」。この堤跡も1983年(昭和58年)に史跡として追加指定を受けている。 |