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所在地:
勘助の墓:大阪市浪速区敷津西町2丁目 「唯専寺」内
勘助の像:大阪市浪速区敷津西1丁目 「敷津松之宮」内
勘助橋跡:大阪市浪速区敷津西1丁目 「鴎町公園」内 |
木津勘助は本名は、中村勘助といい、慶長から元和にかけて活躍した土木技術者。木津川を開削し、勘助島(勘助町:現浪速区大国町)の開発に当たった。豊臣秀吉や、松平忠明にたいへん重用されたといわれる。
1641年(寛永18年)の危機の際、幕府の米蔵米蔵を無断で開け放ち、その米を飢饉に苦しむ人々に施した。その罪で島流し(一説には死罪とも伝わる)になったという波乱万丈な人生を歩んだ。
1586年(天正14年)生まれ、1660年(万治3年)75歳で没と伝わるが、不明な点が多い。
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[参考資料] |
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大阪市浪速区敷津西2丁目にある唯専寺の境内に
勘助の墓と伝わる墓標がある(左側の壷のようなデザインが墓)。
高さ30Cm足らずの小さな墓石である。刻文は不明。 |
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唯専寺の本堂(上記しだ左側)と山門の横に建つ「木津勘助翁墓所」の碑(右側) |
木津勘助の銅像 |
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敷津松之宮の正面鳥居。 |
敷津松之宮の境内にある勘助の銅像はその事績を顕彰して建てられている。最初の像は先の戦争で燃えたため、1954年(昭和29年)に再建された。 |
勘助橋跡の碑 |
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大阪市浪速区鴎町公園内にある「勘助橋跡の碑」。
勘助が架けた橋の跡地であると伝わる。
石碑の側面には「橋はなくとも 勘助橋は 渡りますぞえ いつまでも」の俗謡が彫られている。
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