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史 跡
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鉄眼禅師荼毘地 所在地:大阪市浪速区元町 鉄眼寺
最寄駅:地下鉄四つ橋線『難波』下車、32番出口より南へ約200m
鉄眼禅師は江戸時代初期の禅僧で、1674年(延宝2年)の大坂の大洪水や1682年(天和2年)の大飢饉の際、難民救済に奔走し、救われた人は何万人とも言われ、大坂の救世主であり、名僧と称えられた。
 鉄眼禅師は俗姓佐伯氏、1630年(寛永7年)肥後国益城郡森山(現熊本県宇城市)に生まれ、13歳で出家した。1655年(明暦元年)長崎の興福寺に滞在 していた明の名僧隠元禅師に参じ、禅を修めた。その後、隠元が宇治に開いた黄檗山万福寺に入り、黄檗宗の熱心な布教に努めた。
 1668年(寛文8年)一切経の完全な開版を志し、喜捨をもとめて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、1678年(延宝6年)に完成したが、(黄檗版大蔵経と呼ばれ、 6956巻32万ページ、版木約6万枚から成る)その間、延宝の大坂の洪水、天和の全国的な大飢饉のときなど、せっかくの喜捨を全てその救済にあてた。1882年(天和2年) 過労のため53歳で、大阪市浪速区にある鉄眼寺で没し、荼毘に付された。
 なお一切経の版木6万枚は、宇治市の万福寺に収蔵されているが(国重要文化財)、版木1枚は縦22cm、横82cm、厚さ1.8cmの大きさで、桜の板の表裏に 大半紙4枚分の経文が明朝体で掘られている。 この版木6万枚を一面に敷き詰めると、約1万平米、積み上げると約1000mにもなる膨大な量である。

[参考資料]
鉄眼禅師茶毘処地の碑 鉄眼寺の境内の一角に「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があり、大阪市顕彰史跡となっている。
左端の石碑には「勅謚宝蔵国師 鉄眼道元禅師開山
瑞龍寺」とあるが、宝蔵国師の名は1929年(昭和4年)昭和天皇より下賜された。
鉄眼寺は正式には慈雲山瑞龍寺といい、1633年(寛文10年)鉄眼禅師により中興。黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としている。
山門、本堂(下の写真)共に中国風な感がする。
鉄眼寺山門
本堂の前の布袋さん 鉄眼寺本堂
本堂に登る階段の途中で大きな布袋さんが参拝者を迎えてくれる。
布袋さんが祀られていたのは美原町の法雲寺にもあったが、そのときの説明では、黄檗宗では 布袋は弥勒菩薩の化身と考えられているとのであった。 

史跡-103/TTL-419

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