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史 跡
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弥治右衛門記念碑 所在地:守口市藤田町3丁目 「弥治右衛門公園」
最寄駅:京阪本線「古川橋」下車 徒歩10分
小泉弥治衛門は江戸初期の旧河内国茨田郡大庭、大久保庄(現守口市)の庄屋で、義民として敬慕されている。
 江戸時代初期の頃は、この地域一帯は低地で水はけが悪く、特にこの碑のある藤田村は毎年水腐れの被害に苦しんでいた。その解決のためは、村の下流部分に樋を設け、水を抜くことが必要であったが、下流の人たちの了解が得られないため、弥治右衛門は自らの責任で、1648年(慶安元年)幕府の許可なしに排水樋を作ってしまった。
  南寺方の喜左衛門の事件が14年前にあり、処刑はまぬがれないと覚悟の上であった。幕府は寺方の例と同じく樋の存続は認めたが、弥治右衛門一家4人は翌年の慶安2年3月22日に当地で処刑され、財産などは没収されてしまった。
 事件後、村民たちは排水に身を挺した弥治右衛門を偲んで道標を建てた。これは、幕府をはばかった村民の心を表わす追善の碑であったといわれている。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
義民弥治衛門碑 公園を入ったところにある「義民弥治衛門碑」。
碑の建てられているこの場所は弥治衛門一家の処刑の場所と伝えられ、伝承の地からは白骨が現れたので、1932年(昭和7年)記念碑とと共に新たに墓(下の写真)を建立した。
弥治右衛門公園の入口 弥治右衛門の墓
「弥治右衛門公園」の入口。右手に弥治右衛門顕彰碑が、奥の木が茂っている所に彼の墓がある。 公園の一角にある「弥治右衛門之墓」。
この墓も1932年(昭和7年)顕彰碑と共に建てられた。
弥治右衛門顕彰碑 道標
同じく公園内にある記念碑。この碑は戦後1951年(昭和26年)頃から約10年の歳月をかけ、当地の土地改良事業が行われたが、これの完成を記念し併せ、弥治右衛門の先駆者としての徳を称え、建てられている。 公園の入口にある道標。行先と共に「俗名為弥治右衛門」と刻まれ、村のために犠牲になった弥治右衛門を偲び、後世に伝えようと、天保年間に村民たちが墓碑の代わりに、俗名を刻んだ道標を建てたと伝わる。
弥治右衛門樋跡 弥治右衛門碑前公園
弥治右衛門が身を挺して通した樋は現在は埋め立てられ、遊歩道となっている。 「弥治右衛門公園」の道を隔ててある公園の名も「弥治右衛門碑前公園」と名付けられている。

史跡-106/TTL-427

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