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所在地:大阪市北区天神橋筋2丁目 「大阪天満宮境内」
最寄駅:JR東西線「大阪天満宮前」下車、南へ約100M |
西山宗因の句碑は宗因ゆかりの大阪天満宮にいずれも俳号である梅翁名で2基建てられている。
肥後国八代城の家老加藤正方に仕えていた宗因は、1632年(寛永9年)熊本の加藤主家改易に遭い、八代城も没収され家中離散となった。
宗因は京の本圀寺に隠棲していた主君の正方を追い上京し、主君を慰めながら、連歌師里村家に出入りし、連歌に生きる。1647年(正保4年)里村家の推挙により、大坂天満宮連歌所宗匠となった。
また、1656年(明暦2年)天満宮の傍らに『向栄庵』(有芳庵ともいわれる)を開くなど、大坂を中心として活躍した。
1674年(延宝2年)「宗因千句」を出し、『さればここに 談林の木あり 梅の花』と詠じて「談林派」を宣言。連歌・俳諧の革新を目指し、大坂の裕福な商人達の圧倒的な支持を受け、一世を風靡した。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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大阪天満宮の西側の脇門を入ったところに建てられている宗因の句碑。
句碑には
「宵のとし 雨ふりける元旦に 一に梅花
『浪華津に さく夜の雨や 花の春』
誹談林初祖梅翁 西山宗因」とある。 |
同じく大阪天満宮境内の摂社白米稲荷の一角に建てられている句碑。
『なかむとて 花にもいたし 首の骨』 梅翁
この句碑は宗因の生誕400年を記念して2005年
(平成17年)新たに建てられた。 |
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大阪天満宮の大門前にある『西山宗因向栄庵跡』碑。
52歳の時、ここ天満碁盤町に向栄庵を結び『告天満宮文』を起草し、談林派の隆盛を祈念。談林派総帥として俳諧の世界に新生面を開いた。 |