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所在地:東大阪市若江東6丁目 「若江南墓地」内
最寄駅:近鉄奈良線「若江岩田」下車、近鉄バス「近鉄八尾駅前」行で「若江南」下車、河内街道を南へ、第2寝屋川の橋の手前を東へ、約100m |
山口重信は大坂夏の陣で木村重成とこの若江の地で戦い、戦死した徳川方の武将である。
重信の父但馬守重政は徳川家康に仕え常陸国牛久に1万石を領していた。
1613年(慶長18年)重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして、領地を没収されたが、翌年の大坂夏の陣に重政・重信父子は井伊直孝軍に参戦し、武功をあげて旧領復活を願ったが、重信は武運つたなく26歳の若さで戦死した。
この重信の武功により1628年(寛永5年)、父重政は牛久に1万5千石が復され、その後次男弘隆が
本領1万石、3男重恒が5千石を継いだ。
この墓は弘隆により1647年(正保4年)重信の33回忌に建てられている。墓石正面の銘文には若江堤の戦いの様子が、幕府の大学頭である林羅山の文章を石川丈山の篆刻で刻まれている。上部に2尾の龍が彫られており、デザイン的のも貴重な墓塔とのことである。
墓の周囲の玉垣は重恒が、灯籠は家臣の山口忠兵衛が1654年(承応3年)に、花立ては甥の重貞(弘隆の嫡男)が1692年(元禄5年)に寄進している。
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[参考資料] 『現地解説板』 東大阪市。若江南墓地管理委員会 |
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現地の説明板によると墓は3m角の礎石の上に亀の背が乗り、その上に高さ3m、幅90cm、厚さ45cmの墓塔が建てられており、総高4.5mは優にある立派な墓石である。転倒防止の補強がなされている。 |
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墓に彫られている文字は風化が進んでおり、脱落している箇所も多いが、墓が建立された「正保4年丁亥
5月6日」の箇所ははっきりと読み取れる。
重信は元和元年(慶長20年)5月6日に戦死しているが、33回忌の日取りも同じ5月6日に取り行れているのがわかる。 |
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重信の墓のある場所から川(第2寝屋川)を挟んで見える木村重成の墓。 |
重信の墓の前に建てられてある東大阪市の「解説板」。
『河内名所図会』の絵入りで詳しく解説されている。 |