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所在地:泉南市馬場1丁目 「極楽密寺」境内
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和泉西国33所第33番の札所である極楽密寺の境内に「義民小平次之碑」と刻まれた立派な石碑が建っている。
碑の裏側に刻まれている碑文によると、『(今から255年も前の)1752年(宝暦2年)泉南の村々が大飢饉のために苦しんだ時、信達村馬場の小平次という男が村民17名と謀り、藩の倉稟(米倉)を破って、人々を救った。米倉を破った小平次は他の17名の命乞いをし、首謀者として刑死した。享年48歳であった。
小平次が亡くなった後、人々は村の鎮守の秋祭りの一日、家に閉じこもって小平次の冥福を祈った。地元では「戸閉(とたて)祭」といって、明治になるまで続いた。』とある。
ところが、参考資料とした『日本歴史地名体系』ではこの小平次の存在は疑わしいとし、『大阪墓碑人物事典』には『泉南市史』の引用として、実際に藩の米倉を破ったのは久介という人で、その年代も1652年(寛永2年)ごろの出来事としており、碑の顕彰文の出来事とは丁度100年もの開きがある。
『大阪墓碑人物事典』によると小平次という人は、久介の相続人で、本来久介であるべき義民を、馬場村の人が小平次として、誤って伝えてきたとしている。なお、「久介の墓」は同じく極楽密寺に現存する。
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[参考資料] 『義民 小平次の碑』碑文 永井瓢斎撰文
『大阪墓碑人物事典』 近松誉文 当方出版、『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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極楽寺境内に建つ「義民 小平次之碑」。
高さ3mは優に超える大きな石碑である
この碑は1935年(昭和10年)の建立となっていたが、碑の裏にある顕彰文では「小平次の刑死より193年経った」と書かれている。
宝暦2年と昭和10年の間は183年であり、、碑文にある193年とは10年のずれが生じる。
単なる計算ミスか、それとも、碑文の建立年の記載ミスかいずれかであろう。
この碑の撰文の作者永井瓢斎は本名は栄蔵。
大阪朝日新聞社の論説委員を務め、特に「天声人語」で健筆を振るった人で、1945年(昭和20年)に亡くなっている。 |
義民 久介の墓。
墓は自然石で大きさは約50cmほどの高さである。
墓標には「俗名 久介 観誉道清信士 十四日」とあった。 |
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