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史 跡
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徳川家康陣跡 所在地:交野市星田2丁目
最寄駅:JR学研都市線「星田」駅下車、京阪バス「交野市駅」OR「河内磐船駅」行で「妙見口」下車、西へすぐ
1615年(慶長20年)5月5日大坂夏の陣に臨んで、徳川方は因幡矢橋城主市橋長勝の意見により、星田を宿営地に選び、警固を強化したため大坂方に事前の焼打ちを免れたという。
  当日、徳川家康は平井家が用意した宿舎に1泊し、翌日出陣にあたり、以後野営のため不必要になる火入れ、小鉢類、湯呑茶碗など、家康使用の品々が与えられた。
このときの一連の出来事が後に、市橋家領が星田に設けられることになり、平井家が市橋家領の庄屋となった理由でもある。
  市橋長勝の8代孫である市橋長昭(近江仁正寺藩第7代藩主)が大阪城代になった寛政年間(1789〜1801年)に星田を訪れた時には、宿舎は既に取り壊されていたが、長昭はこのいわれを綴り、大久保忠真筆の「神祖営址之碑」 が1805年(文化2年)に建てられ現存している。

[参考資料] 『現地案内板』
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
神祖営址之碑 「神祖営址之碑」は漢文で書かれているが、現地に掲示してあった訳文を読んでみると、神君家康に敬意を払いつつも、家康の信頼を得ている先祖の長勝の深謀遠慮を称える文章になっているようである。
尚、文面には長勝自身が、この星田で防備に当ったとは書かれていないとのことで、案内板の作者は「長勝が事前に大坂方の動きを予想して、星田での警固の強化を献策したものと思われる」と推察している。
手作りの案内板 平井家の正門の土塀
「妙見口」バス停から西に向かって行くと、手作りの案内板が目に入るが、車では見逃してしまう程の大きさである。 平井家の正門の土塀。「神祖営址之碑」は手前の塀に添って奥に行くとある。

家康ひそみ薮 所在地:交野市妙見
最寄駅:JR学研都市線「星田」駅下車、京阪バス「交野市駅」OR「河内磐船駅」行で「妙見口」下車、南へ川沿いの道を約700m
家康が潜んだ竹薮 「家康ひそみ薮」石碑
 交野市には徳川家康に関わる史跡は上記の「神祖営址之碑」以外にもう1ヵ所ある。
 星田妙見宮の参道入り口の北側に家康が「本能寺の変」の時、潜んだと伝わる竹薮がある。
現地の案内板によると「1582年(天正10年)6月2日、織田信長が京都本能寺において、明智光秀の反逆により自害した。
 この時、家康は堺に滞在中で、身の危険を感じ急いで国三河に帰ろうとし、その日の深夜星田に来て、この薮の中に身を潜め、村の長、安井氏に山城方面に出る間道に精通している農民を道案内人として出すように依頼した。
 平井家より出された2名の案内人は、無事に道案の大役を果たし、家康は山城を経由して、伊賀方面に逃走することを出来たという。」

史跡-155/TTL-625

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