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史 跡
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三田家住宅 所在地:大阪府柏原市今町1丁目
最寄駅:JR大和路線「柏原」下車、西口を出て西へ約50m、
東へ約300m
三田家住宅は1766年(明和3年)の建築で、柏原の富商の代表的な住宅である。1969年(昭和44年)に主屋・土蔵の2棟と塀1棟が国の重要文化財に指定されている。
 江戸時代前半、大和川付替工事前の柏原村は常に洪水に悩まされていた。特に1633年(寛永10年)堤の決壊で、濁流のため、家45軒、田畑200石分が流失し、多くの死者を出した。
 疲弊した柏原村を復興するため代官末吉孫左衛門は了意川(平野川)に荷舟(柏原舟)を通し、大坂と柏原の物資輸送計画を立て、1636年(寛永13年)15名の商人と40艘の舟仲間でスタートさせた。
 また、1639年(寛永16年)には大坂の大文字屋七左衛門ら大坂組と呼ばれる14名の有力商人をこの柏原に勧誘した。 大坂の伏見呉服町より、当地に引っ越してきた初代七左衛門は2艘の持ち舟でスタートさせたが、事業は順調に伸び、明治初年には持ち舟は19艘に及んだという。
 この初代七左衛門は三田浄久という名で知られた学者・文人で、『河内鑑名所記』の著者でもあり、井原西鶴や貞門第1人者の安原貞室らとの親交もあった。
「河内鑑名所記」:1679年(延享7年)に出版された河内地方の名所・旧跡を紹介した地誌。三田浄久がこれらの場所を訪れた文人たちの狂歌や俳諧を載せてまとめたもので、後の江戸中・後期の「河内志」や「河内名所図会」の先駆けとなった。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
国指定の史跡となっている三田家住宅 重要文化財を示す石標
三田家住宅は明和3年の建築以来、大きな手も加えずに現在に至っているとのことである。
屋敷の規模は主屋 桁行 15.6m、梁間 11.8m 一部2階、土蔵 桁行 6.1m、梁間 4.6m 2階建て
柏原舟 舟たまり跡地記念碑 柏原市内を流れる平野川
柏原舟の舟たまり場跡。現在は埋め立てられ児童公園になっている(左の写真)。右の写真は三田家の裏を流れる平野川。
柏原舟は全長約12m、幅約2m、深さ約0.4mの舟で2人乗りで運行された。1636年(寛永13年)の発足時には総数40艘ではじめられたが、大阪組が参加した1640年(寛永17年)には総数は70艘になった。
大和川の付け替え工事後も、了意川(平野川)を利用し柏原舟の運行は続き、柏原村の経済の発展に大きな役割を果たしたが、1889年(明治22年)湊町、柏原間に鉄道が開通したため、荷物輸送は柏原舟から鉄道に代わり、1907年(明治40年)にその役目を終えた。

史跡-172/TTL-700

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