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江戸時代、大坂の市中は幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。
三郷の形成は、1583年(天正11年)豊臣秀吉が大坂城の築城に引き続き、1586年(天正14年)からは二の丸の工事を行い、続いて三の丸・惣構堀が整備される中で、城の西方に新たに船場・島之内の砂州を開き、城下町として整備した。加えて、1596年(慶長元年)の大地震で堺が壊滅的な被害を受け、その機能の代替として船場が大改造され、政治、経済、流通の中心地となっていった。
江戸時代になってからも、大坂の陣を挟んで堀の開削が進み、1615年(元和元年)道頓堀が完成した頃にはほぼ三郷の形が整っていた。
三郷の区分けは、元和年間(1681〜4年)から寛永年間(1624〜44年)にかけてまず北組と南組、最後に天満組が形成された。北組・南組は現在の中央区の本町通を境とする南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯であるが、手元にある1691年(元禄4年)の大坂地図によると北組・南組の区分けは南北線が必ずしも直線で区切られておらず、谷町筋や西側の善安筋には北組が内久宝寺あたりまで食い込んでおり、四つ橋の周辺や日本橋の北側にも北組の管轄地が確認される。
三郷の町数は600から620の間で増減を繰り返し、1782年(天明2年)以降、幕末までは620町(北組250、南組261、天満組109)あったといわれる。
三郷の組にはある程度の自治が認められ、町の行政を担当するため、町人の中から選ばれた惣年寄達が月番で惣会所に詰め、下部組織には町年寄や惣代が実務を担当した。また、大坂町奉行所のもと年貢の取り立てやお触れの通達、町年寄の任命、火消しの人手の指揮など、現在の司法、消防、警察などの業務も担当した。
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[参考資料] 『現地解説板』
『大阪の歴史』 塚田孝 大阪学テキスト(2006年受講) |
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所在地:大阪市中央区平野町3丁目
最寄駅:地下鉄御堂筋線「淀屋橋」、御堂筋を南へ
OR「本町」下車、御堂筋を北へ、平野町3丁目信号を東に入る |
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北組惣会所跡は現在は「東横イン」というホテルが建っており、石碑はその入口の脇に立てられている。
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所在地:大阪市中央区農人橋1丁目
最寄駅:地下鉄谷町線、中央線「谷町4丁目」下車、谷町筋を南へ、最初の通りを西に入る |
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南組惣会所跡は現在は南大江保育所になっているが、現地には「南大江小学校跡」と立派な石碑が建てられており、南大江小学校は1970年(昭和45年)に通りを1つ隔てた場所(元農人町公園があった)に移転している。
南組惣会所は元は本町4丁目にあったが1724年(享保9年)の火災で焼失し、現在地に移転したという。
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所在地:大阪市北区天満4丁目 滝川公園内
最寄駅:地下鉄谷町線・京阪電車「天満橋」下車、北西約300m |
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滝川公園内に建つ『天満惣会所跡』の碑。実際の会所は碑の位置から道を隔てた西北角(現在は住宅が建ち並んでいる)にあった。石碑は右の写真、公園入口の右手(門の裏手)にある
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