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私に出来る事

数年前、大阪の夏、天神祭りで打ち上げられる花火の音を聞きながら、私は病院のベッドの上でボンヤリと天井を眺めていました。
腕には点滴の針がテープで止められ、足元からは尿を導くチューブがベッド脇のビニールバッグまで伸びています。
しかし、病気や事故でここにいるのではありません。 寝返りをうてない不自由さと、少しの自己満足を感じながら、今までの出来事を振り返っていました。

【骨髄バンクへの登録】
私が「骨髄バンク」登録を思い立ったのは、もう9年も前になります。平成7年1月17日のあの出来事、そう「阪神淡路大震災」が契機となりました。
連日TVメディアなどにて知らされる惨状の数々、そして、その苦難にも挫ける事無く果敢に立ち向かい、再生を目指す被災者の方々。
そこに全国各地から集まった多くのボランティア達の活躍を知るにつけ、ほんの十数キロ、自転車をチョイと走らせれば行ける場所に居るにも関わらず、何も出来ない自分自身の無力さ、不甲斐なさを痛感し、悶々とした日々を過ごしている時に辿り着いた一つの答えが「被災地に赴いているボランティアの方々の精神は、もちろん尊いが、同じ事ができなくとも、自分自身が置かれた状況で無理なく出来る事をすれば良いのではないか!」という思いでした。

震災2日後には「普段でも血液が不足する冬場、しかも大きな災害のため、より多くの血液が不足している」と聞き及び、足を運んだ献血会場で、なにげなく手にした「骨髄バンク登録案内パンフレット」が震災以外にも、生きる為に戦っておられる方々がいる現実を私に教えてくれました。

これこそ今現在、私の置かれた状況で出来る分相応なボランティアではと思い至り、さっそく登録申込み手続きを行い、数日後には、登録のため白血球の型(HLA)を調べる「1次検査」を経て「2次検査」を受けました。(今では10ccの採血一度で検査が出来るようになっているようです。)

【私がドナーに】
登録後の一年間に2度ほど適合者としてコーディネートを受けたのですが、その時は私より条件の良いドナー(提供者)さんが居られたとの事で、面談と3次血液検査を受けるにとどまりました。

それから数年が経ち、骨髄バンクに登録した事も記憶の片隅に押しやられ、忘れかけていた頃、3度目となる案内が手元に届きました。 これまでの2回と同じように3次検査を受け、数日すると最終適合者となった旨の連絡が入り、数日の思案の末、家族同伴での最終意思確認手続きを完了。
この「最終意思確認」について骨髄移植財団のパンフレットには、次のように書かれています。
最終同意は、患者さんの命に関わる大切な約束です。最終同
意書への署名後、患者さんは「まちがいなく骨髄移植がうけら
れる」ことを前提に、骨髄移植のための前処置に入ります。
この時期に提供を撤回されますと患者さんは血液をつくる
機能がないため、致命的になります。ご家族の方と十分に時
間をかけてご相談のうえ、ご決断下さい。

そう、この最終意思確認に同意すると、患者さんは移植に向けての準備に入ります。 途中で意思を翻すことは絶対あってはいけない事はもちろん、不慮の事故や、病気になることも患者さんの命に関わってくるのですから、責任重大です。 ですから同意後は、深酒を慎みました。 睡眠時間も十分とるように心がけました。 通勤で乗るバイクの走りも慎重になり、赤信号では必ず停まりました。(^_^)v
そして入院10日前からは「禁酒」し、出来る限り良い状態で入院当日を向かえられるよう気遣いました。


【入院1日目】
いままで幸いにも病院とは無縁な生活をおくってきたため、入院生活ではベッドの上で退屈するのかなぁ、とも思っていたのですが、いざ現実となると検温や、執刀医、麻酔医などとの対応などがあり、思ったより早く時間が過ぎ去って行った感じです。
日課は、6:00起床/8:00朝食/10:00検温/12:00昼食/14:00検温/18:00夕食/19:00検温/21:30消灯/のスケジュールを申し渡されました。 でも今回は、個室を用意して頂けたお陰で"消灯時間"だけは「体調を崩さない程度に自由で良い」との許可を貰い、持ち込んだ本を読むなどして夜11時過ぎに就寝。


【入院2日目】
採取部位(腰、臀部、太もも)周辺を、除毛クリームにて奇麗に除毛する。 しかし、普段毛が有る所に、毛が無いと云うのも妙な感覚です。 夕食を済ませた後からは、翌日の手術に向け、絶食に入る。
就寝前に、下剤の服用、点滴部位となる左腕に痛み止めのシールを貼ってもらう。 聞く所によると手術中、および術後数日は、ここより点滴を受ける事になるそうだ。


【入院3日目】
いよいよ、骨髄採取当日がやってきた。午前6時前には目覚め、9時15分のオペ開始に向けて排便、髭剃り、着替えとあわただしく時間が過ぎ去って行く。 9時10分いよいよ、車椅子に乗せられて、病室を出る。
手術室前室にてストラクチャーに乗り換え、待つ事数分、手術室スタッフの「行きますよ」の声と共にいざ手術室へ。
意外と緊張も不安もなく平常心でいる事ができた。「そろそろ始めます」との執刀医の言葉と共に、点滴が施され、麻酔用マスクを装着する。 「気分はいかがですか?」と問い掛けられた所までは、意識があったのですが、その後は、あっという間に麻酔により.....意識が...?????....ZZZZzzzz.....
次に気がついたときには、回復室に移動しており寝不足気味で目覚めた時のような感じで、やけに頭が"ぼやーっ"としているが、暫くするうちに意識が、はっきりしてきた。
腰の辺りがダルイ様な、重いような感じがし、ようやく骨髄採取が終了したとの実感が湧いてくる。

【入院4日目】
朝から微熱が有るが気分は、そう悪くない。 そのうち熱も引くだろうと思っていたが、お昼ごろには、38℃を超えたため解熱剤を処方していただき服用する。 解熱剤のおかげで16時頃には熱も引き楽になる。
お昼前には、尿道に入れられていたチューブを引き抜いてもらったのだが、チューブが入れられた時は、麻酔中だったため何も判らず抵抗もなかったが、意識が鮮明な時に、うら若き看護婦さんに処置されるのは、ちょっと恥ずかしく、こちらが照れてしまう。
懸念していた腰の痛みは、ちょうど筋肉痛の様な感じで動かさなければ、特段痛みはなく、だるさだけを感じる。 時々点滴スタンドを引き連れて、自動販売機にジュースを買いに行くが、販売機の下に出た商品や釣銭をとるために、腰を折る時が一番痛みを感じるが、その痛みも30分毎ぐらいに段階的に和らいでいくのが、ハッキリと感じ取ることができ、人体の回復力の速さを身をもって体験することができた。
夜には、実はこれが一番辛かった絶食も解け、夕食を頂きました。二日ぶりに固形物が喉元を越える幸福感!!やっぱり食べられると言う事は、幸せだと実感できた瞬間でした。

【入院5日目】
痛みも無くなり、そろそろ入院生活が退屈となり主治医に「まだ、退院してはだめ?」とおねだりするものの「もう少し様子を見ましょう」とのつれない返事。 仕方がないので、本屋へいって雑誌を買ってきて読んだり、看護婦詰め所に遊びに行ったり(でも、皆さん忙しくしている為、早々に退散)、夜はパソコンでゲームをして時間を潰し、ようやく就寝。

【入院6日目】
朝の検査で、「昼食を摂った後、退院OK」の許可がやっと出て、一安心! お世話になった方々への挨拶回りを済ませ、ようやくシャバに出る事ができ、短くて、長かった、初めての入院生活に終わりを告げました。
採取部位からの雑菌進入が懸念されるため、数日は湯船に浸かることはできませんが、許されたシャワーを浴び、約2週間ぶりに飲んだビールの美味さは格別でした。

1992年に始まった活動も、昨年には移植5000例を超え、バンク登録者数も17万人を突破し、ますます広がりつつありますが、しかしまだ適合するドナーが見つからず待っている患者さんもたくさんおられます。
それだけでなく、ドナーと患者さんの間を取り持つコーディネーターのボランティアや運営資金も不足していますので、関心のある方は、右記の窓口にアクセスしてみてください。

骨髄提供から1年2ヶ月後、元気になられた元患者さんから、お礼の言葉と共に手紙が届き、私の大切な宝物の一つとして、今も手元にとってあります。
※数年前、トライアスロン仲間の情報誌掲載のために、自身の経験を書いた文章を引用しました。



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バレンタインデーに思う

2月14日はバレンタインデー、巷では義理だの本命とかが話題となっていますが、昨年から私にとっては少し悲しい日となりました。
それは昨年2006年2月14日の夜、幼馴染からかかってきた一本の電話でした。 その電話口から聞こえてきたのは、高校来の友人である「F川」君の訃報でした。

彼とは、高校時代こそ余り親しくなかったのですが、卒業後は一緒に遊ぶことが多くなり、社会に出てからは、お互いに興味のあった「ラリー」と言うモータースポーツに二人で参加するようになりました。

ご存知の方もおられるでしょうが、ラリーという競技は主催者が設定したルートを示したコマ地図に沿って、いかに指定された速度通りに走りぬけるかを競うものです。

私がナビゲータシート(助手席)に座り、当時は円盤型計算尺や電卓で出した走行速度や交差点での進行方向をドライバーに伝え、彼がその指示に従ってドライビングするという組み合わせでした。

その当時国内で行われていたラリーには、走る速さを主に競う(A級)、大学の自動車部などが主催することが多かった走る指示速度が頻繁に変更される、俗に計算ラリーと呼ばれる(C級)、その中間的な性格の(B級)などがありました。 その多くは夜10時前後にスタートし翌朝ゴールする夜間走行主体のナイトラリーで、コースの大半は山間地の林道などガードレールもなく舗装も当然されていないダート(未舗装路)が舞台でした。

ナビゲータの計算能力が左右するC級、B級で始め、ときにはドライバーの運転テクニックが成績に直結するA級にも参加するようになり、2度ほど表彰台に上がることもありました。

C級、B級でのナビゲータは、暗く揺れる車内での速度計算が大変なのですが、A級ではドライバー任せとなり、その役目が軽減され楽となります。 その反面、オーバースピードやコントロールミスによる転落、衝突などの可能性もあるわけで、大げさに言えばナビゲータはドライバーに命を預ける覚悟がなければいけないのですが、その点、彼はトラブルを起こすこともなく、安心してナビゲータシートに座っていることが出来ました。

お互い結婚し家庭を持ったのを契機にラリーとは疎遠になりましたが、、そんな間柄だった「F川」君が亡くなった事はショックでした。 翌日仕事を終えてから駆けつけたお通夜で、彼が2年ほど前に骨髄性白血病を発症し、そして戦っていた事を知りました。
彼には兄弟にHLA適合者がおり、骨髄移植を受け一度は回復に向ったそうですが、不幸にも再発し、49歳という若さで旅立って行きました。 テレビなどで同じような訃報を聞くたび、できれば多くの人にドナー登録して頂き、一人でも救える事を願っています。

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