昔、ある国に「世界一美しい王子」がいました。彼は「世界一幸福
な王子」とも呼ばれていました。なぜなら、美しいばかりでなく、あ
らゆる才能に秀でて、武芸でもスポーツでも、彼にかなうものはあり
ませんでした。また、隣の国には、「世界一美しい王女」が住んでい
ました。彼女は「世界一幸福な王女」とも呼ばれていました。なぜな
ら、美しいばかりでなく、あらゆる学芸に秀でて、どんな才能でも彼
女より勝れた女性はありませんでしたから。王女にふさわしい配偶者
は、この王子以外には考えられず、王子にふさわしい配偶者は、また、
この王女以外には考えられない、と全ての人がそう思っていました。
事実またそのとおり、二人は出会ったときから互いを好きになり、
めでたく結婚することになり、二つの国は一つに統合されることにな
りました。もちろんその陰には、利害得失を異にする人々の間での少
なからぬ困難や諍い抵抗などなどといった少しも愉快でない話も実は
たくさんあったのですが、賢いお二人や両王両后たちはそれらを全て
軽くのり越えていきましたし、なによりこの幸福な結婚に酔いしれる
人々の圧倒的な気分に支えられ、それらは聞くにたえないささいなつ
まらないエピソードのいくつかとしてまもなくすべて忘れられていき
ました。
宴は考えられる限りのあらゆる贅を尽くした盛大なものでした。
彼の持つ技術の粋を尽くして、「世界一幸福な二人」を題としてあら
ゆる絵が試みられましたが、どんなに描いても、この画家の自尊心を
満足させるような作品は、遂にできませんでした。
「世界一幸福な絵」は、一年経っても二年経っても、日の目を見るこ
とはありませんでした。
責任感強い画家は精神的衰弱を訴え、宮廷画家の名誉ある地位を自ら
辞することになりました。
彼の不幸な絶望は、彼のあらゆる自信を奪い、遂には彼から絵を描く
気分そのもの奪う結果となりました。
こうして一人の不幸な画家が生まれました。
さて、ここにもう一人、不幸な若い画家がおりました。絵を描く以
外には何の能力も才能もない青年でした。しかし絵を描く才能といっ
ても疑わしいもので、実は彼には猫の絵しか描けなかったのです。人
が良く気弱な彼に同情して、たまに絵の注文をしてくれるお客がいて
も、花の絵を描けという注文に対しても、彼はやはり猫の絵しか描く
ことができないのでした。彼にとってその猫こそ「花」でした。しか
しお客にとってそれはもちろん「猫の絵」でしかありませんでした。
美しい山を描けという注文もありました。彼はまた一生懸命猫の絵を
描きました。彼にとってその猫こそ「美しい山」でした。ところがそ
のお客にとってもそれはやはり「猫の絵」でしかありません。
若者は親の遺してくれたわずかな財産を食いつぶすばかりで、乞食
のように貧しい生活をするほかありませんでした。
画家の住む貧しいアパートの向かいのアパートの3階に、画家がひ
そかに恋いこがれている少女が住んでいました。別に美しい女性とい
うわけでなく、どちらかといえば目立たない、しかも病のため戸外に
一歩もでることのできない少女でした。このほとんどひとめを引くこ
とのない彼女をかいま見ては、画家は切ない恋を感じておりましたが、
自分のあらゆる才能に絶望していた彼には、愛する人を幸福にする自
信などとうていなくて、愛すれば愛するほど『あの人をあきらめなく
ては…』という不幸な決意をかためるばかりでした。
実は少女の方もこの若い画家に恋いこがれておりました。毎日むな
しく見下ろす窓辺からふと目を見合わせたこの青年に、その日から彼
女も切ない恋を抱くようになったのです。しかし内気な彼女も気弱な
若者と同じ決意をかためていました。というのも、彼女自身不治の病
にかかっており、自分がまもなく死ななければならないのを承知して
いたからです。
こうして二人は、かたい表情の中に切ない思いを秘めたまま、互い
の片恋を知ることはありませんでした。
一枚の美しい黒猫の絵が残されていました。若者にとっては恋いこ
がれた少女の姿そのものでした。そして遺されたメモから、若い隣人
からのプレゼントとして絵は少女のもとに届けられました。少女 は絵
を見て、激しい悲しみのうちにあらゆる事をさとりました。その一瞬、
彼の絵の初めてのそして真の理解者となった少女にとって、その絵は
青年の純粋な愛そのものでした。
そして激しい至福の歓喜と悲しみの焔(ほむら)の中に、彼女にわ
ずかに残された生命のすべてのエネルギーが燃え尽きました。ことき
れていく彼女には、その絵こそ若者そのものでした。
葬儀が済んで、主のいなくなった少女の部屋に、人々は世にも美し
い黒猫と、一枚のふしぎな白いキャンバスを発見しました。
この世界一美しいかと思われる黒い猫は、めぐりめぐってあの「世
界一幸福な」王子と王女のもとへ献上されることになりました。
そして不思議な魅力を秘めた奇妙な白いキャンバスは、めぐりめぐ
ってやはり世界一偉大だといわれた画家の手にするところとなりまし
た。その白いキャンバスに、失われたはずの激しい創作意欲をかきた
てられて、画家は不思議の感に打たれましたが、まだ彼には、どんな
絵が描かれるべきなのかはわかりませんでした。
「世界一幸福な二人」と言いはやされていた王子と王女、しかし二
人はちっとも幸福なんかではありませんでした。いくら求め合っても、
与えあっているつもりでも、愛も幸福も、実感として深く感じられる
ものがまるでないのでした。
そして文字通り愛の結晶とも言える子供は、不思議にも皮肉なこと
に二人の間にはどうしても生まれないのでした。誰が見ても仲むつま
じく幸福な夫婦でした。たがいに相手をやさしく気づかうことにおい
ても、人並み優れた二人でした。こうした二人に、例の猫がうやうや
しく献上されたとき、二人は思わず喜びの声をあげました。それほど
美しい魅惑的な猫だったのです。これこそ彼らが求めてやまなかった
もの、そのもののような気さえしました。
美しい猫は、二人の子供のように、二人の愛情を一身に受けること
になりました。
奇妙な生活が始まりました。これは二人にしかわからないことでし
たが、王子には王女よりも、王女には王子よりも、この猫の方を本当
に愛せるのではないかという気がしていたのです。やさしい二人は仲
むつまじく暮らしておりました。王子は王女に、愛しているよと言い
ました。なぜかそばにいる猫が笑ったような気がしました。王女は王
子に、私たちは世界一幸せねと言いました。すると猫が尾で?を作っ
たような気がしました。
二人はいだき合いながら、心のどこかでため息をついているのでし
た。二人は激しくいだき合いながら、一匹の猫より孤独を感じていま
した。王女は夫の姿が見えないあいだ、猫を膝の上に抱きながら「愛
って何かしら。」とつぶやいてはため息をつきました。王子は妻の姿
が見えないあいだ、猫を膝の上に抱き「幸福ってなんだろう。」とつ
ぶやいてはため息をつきました。
深い霧がたちこめたある朝、王子と王女は庭で軽い食事をとってお
りました。
王子が突然、音をたててナイフとフォークを皿の上に落しました。
彼は、自分たちこそ世界で一番みじめで不幸な存在ではないかという、
それまでの人生のすべてを根底から覆すような一瞬の激しい心の痛み
に貫かれ、小さな叫びをあげ、そのままこときれました。
壮大で悲痛な葬儀のあと、王子の死の原因と心の秘密を知るものは、
聡明な王女だけでした。
王女もまた、自分たちの不幸を嘆きみるみる衰弱して、わずか数週
間の後に命の炎を消しました。
二人が亡くなってまもなく、世にも美しい一匹の白い猫が姿を現し
ました。
こうしてお城で仲よくたわむれる二匹の美猫は、やがて二人の死を
悼む人々によって、まさに二人の生まれかわりのように愛され、大事
に養われることになったのです。
さて画家の話。絵筆をとらなくなってから久しいあの偉大な画家は、
誰に会うことなく例の白いキャンバスに向きあったまま、むなしく日
々を過ごしておりました。
ある日こんな画家の耳にも、彼の絵筆を奪うきっかけとなった例の
「世界一幸福な」王子と王女が亡くなったというニュースが伝わって
きました。同時に不思議な黒い猫と白い猫の話も。そしてその話を聞
いたとき、突然画家は何を描くべきかをさとりました。
長いあいだにらみ続けてきた白いキャンバスに、画家ははげしい勢
いで絵を描きはじめました。
出来上がったのは、何とも幸せそうな二匹の猫と何匹もの可愛らし
い子猫たちの、家族の肖像でした。
すっかり年をとった一人の画家が、一匹のシャム猫を飼っていまし
た。毛なみは美しいグレーで、目の色は緑色でしたが、青さの感 じが
左右でいくらか違っていました。画家は猫を抱きあげるとその目を覗
き込むようにしては、誰に言うともなくこんなことをつぶやくのでし
た。
「いいかな、いちばん大切なのは富でも地位でもない。
愛じゃよ、わかっておるかの。
おまえさんの目はいつも深い湖水のようじゃて。
やっぱり左右でいくらか色が違うのう。
湖水の底に小さな明かりがちろちろ燃えている気がする。
これは焚火かな。
焚火に向かいあって座っているように見えるのは若い男女かな。
・・・ ほほう、見つめあっとる。
・・ 微笑みあっとる。
わしゃあ、目がおかしいのかな。
幻かな。」
画家は猫を床に降ろすと腕組みをした。
「・・わしももうろくしたかな。
まあ人生は夢みたいなもんじゃが・・・。」
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