縄文中期の軍場山遺跡北上川の流路が一定していないこの地域の丘陵部に、原始人が一石器や土器 を使用して狩猟・漁労の生活を営んでいた。町内に残る遺跡としては、 町の西北部に連なる丘陵地帯の字軍場に軍場山遺跡がある。縄文中期か ら後期の遺跡で、大木8B・大木9A・大木10、それに南境型磨消縄文 土器片、石鏃類の石器などが出土している。登米郡と遠山村登米郡の建郡は不明である。延暦18年(799)までには建郡されていたと考 えられる。おそらく延暦初年であろう。同18年、郡の統廃合によって 小田郡に合併されたが、間もなく復置された。「続日本紀」の宝亀5年 (774)10月の条に、陸奥国遠山村の蝦夷を按察使大伴駿河麻呂が討っ たとあり、この遠山が「とよま」になったものとみられている。この 「とよま」が「登米」を用いたのがいつのころか明らかではないが、延 暦18年には登米郡となっている。おそらく建郡とともにこの登米になっ たものであろう。ただし読みはトヨマであった。「和名抄」には「止与米」 と読ませ、松尾芭蕪の「おくのほそ道」にも「戸伊摩」とある。 |
葛西氏と寺池城奥州平泉藤原氏を滅ぼした源頼朝は、論功行賞で東北を鎌倉 武士に分与したが、文治5年(1189)葛西清重は、伊沢・磐井・ 牡鹿諸郡を与えられた。そして葛西氏はやがて登米郡を含む中奥七郡の 大領主に成長してゆく。清重は、領内支配のため、牡鹿郡石巻に着き日 和山城を築き住し(菖西実記)、建久5年(1194)4月登米郡寺池 館に移居したともいわれる(高野山五大院記録)しかし、「吾妻鏡」で は清重は鎌倉幕府の宿老として側近常侍の地位にあり、鎌倉に住んで勤 仕していたと思われるので、日和山城・寺池城を彼が築いたとあるのは、 後世の伝説と考えられる。石巻の日和山城築城は、葛西五代清宗の頃と 考えられ、それ以前の葛西居城がどこであったかは明確でないが、寺池 城(登米城)であったとする説もある。葛西氏から木村氏へ寺池城は葛西氏の居城となり、十七代晴信が天正18年(1590)秀吉 によって滅ぼされるまで、三代五十五年の支配が続いた。葛西氏滅亡後は、 秀吉の子飼いの大名である木村伊勢守吉清が入って居城としたが、入国2 か月後に勃発した葛西大崎一揆に攻められ落城した。一揆平定の功により 登米寺池を含む葛西大崎領は全領伊達政宗に与えられて近世を迎えることになった。 |
白石宗直と寺池城江戸期寺池城(要害)主となったのは、 白石宗直である。宗直は登米伊達家 の祖である。彼ははじめ水沢で五千 石であったが、関ケ原合戦の際主君 政宗の指令により和賀氏を助けて南 部氏と戦い、それがあとで問題になっ て、慶長9年(1604)、登米郡 寺池に移ることになる。のちの大坂 の役での活躍により、一万五千石と なり、のち天和2年(1682)伊 達姓を賜り一門に列せられた。 相模土手宗直が寺池に移され た時は、葛西大崎一揆後の戦乱で田 畑は荒れ、そのうえ北上川の氾濫で 荒廃がさらに重なっていた。宗直は 手はじめに北上川の改修と墾田に着 手した。慶長10年(1605)から 13年にかけて堤防を築き、流路を 固定した。彼にちなんで「相模土手」 と呼ばれ、これによって田畑の開墾 も進んだ。 二万石となった登米伊達領宗直のあと、宗貞−五郎吉−宗倫 (宗家忠宗の五男、式部) −村直 (宗家綱宗の四男)と継ぎ、村直の 時は新田分を含めて、二万石となっ ている。領地は、寺池村・日根牛村 を含めた登米郡のほとんどと、一部 桃生・牡鹿・本吉・気仙・宮城郡に まで及んでいる。歴代の登米伊達家 では ※前子がない場合は、仙台宗家よ り養子を迎えるというように、本藩 と緊密な間柄にあった。当町域は十 三代二百六十年にわたる登米伊達家 の支配が続き、明治維新に至る。 |
登米県から登米町まで明治元年 12月、当町域は土浦藩取締地に 編入。取締所は桶谷に置かれた。同 2年8月、登米県所属、県庁は登米 に設けられた。同3年2月大肝煎は 郡長となり、肝煎は廃されて村長と なり、四人の村長が誕生した。同4 年11月、登米県と胆沢県が合併し 一関県となる。県庁は一関に移り、 登米は出張所となった。同年12月、 一関県を水沢県と改称、県庁を登米 に移転することになり、翌年7月に 開庁された。水沢県庁舎の一部が現 在町内に残されている。同6年11 月、寺池・日野渡・小島・日根牛の 四か村が合併して登米村となる。そ の後県庁は一関に移転、同8年11 月、水沢県から磐井県と改称、同9 年、磐井県廃止、当町域は宮城県に 合併された。なお登米村は明治22 年、市制町村制施行に際し、登米町 と称し現在に至っている。 |
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