カルピの情報
カルピへの交通アクセス、町の歴史、街の見どころなどを紹介します。
町の歴史
カルピという地名は、伝説によると、ランゴバルト王、アストルフォが、なくした狩り用の鷹をシデの木(イタリア語で「カルピーネ」)の上に見つけたということから、こう呼ばれるようになったと言われている。
>10世紀後半14世紀前半までは、豪族の間で、勢力争いが続いたが、その中で、ピオ一族が力を持つようになり、1331年にマンフレード・ピオが皇帝から、カルピの領地を授かる。その後、1525年まで、ピオ家の安定した統治が続き、カルピの町は重要性を増していった。ピオ家の最後の君主であるアルベルト三世(1490-1525)は、アルド・マヌツィオやジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラに学んだ人文主義者であり、カルピをありふれた田舎町から、ルネサンスの中心地へと変えようとした。アルベルト三世により、マルティリ広場周辺が整備され、現在は、それが歴史的市街区として残っている。
カルピは、1525年から2年間、スペインの統治をうけ、その後、フェッラーラのエステ家、アルフォンソ一世の統治下に移るものの、1796年にフランスに占領されるまでは、ある程度の自治権は保っていた。1815年に再び、オーストリア・エステ家の統治を受けるが、次第にリソルジメント(イタリア国家統一)の考えが広まり、1821年から1831年の運動へとつながっていく。そして、1860年にイタリア王国に吸収される。その後、鉄道駅、劇場が建設される。
第二次世界大戦中、カルピのフォッソリ地区にある強制収容所は、イタリア中のユダヤ人を収容する拠点の一つとなり、多くのユダヤ人がそこからアウシュヴィッツへと送られた。
第一次、第二時世界大戦を終えた後、カルピには初め農業および木くずにかかわる産業が発展、50年代、60年代からは、繊維工業(特にニット製品)、また機械工業が活発になる。現在もニット産業は非常に活発であり、その中でも日本にも出店しているブルマリンが有名である。また、カルピのサッカークラブ、カルピFC1909(Carpi Football Club 1909)は、1909年に創設され、現在、セリエDに所属している。
町の見どころ
カステッロとマルティリ広場
街の中心に位置するマルティリ広場はカルピのシンボルともいえる。イタリアでも有数の大きさのこの広場は、正面をカステッロ(パラッツォ・ピオ)、その向かいには長いポルティコ(柱廊)の続くパラッツォ、南端は、通りが続き、その反対の北端を大聖堂が広場を閉じるように構えている。木曜と土曜の朝には、露天商でにぎわう。
このスペクタクルな空間は、1490から1525にかけてカルピの最後のの君主である、ピオ家のアルベルト三世によって整備された。アルベルト三世は、後にヴェネチアで本の編集及び印刷、出版を始めたことで有名なアルド・マヌツィオに教育を受け、また、驚異的な記憶力を持っていたことで有名なピコ・デッラ・ミランドラの甥に当たる人文主義者(ウマニスタ)である。その自身の思想を反映するのがこのマルティリ広場であるといえる。当時は、通り側に位置し広場の一部をふさぐ市立劇場が存在しなかったため、通りからは目の前に大きく一気に広がる、美しいルネサンス的な空間を眺めることができた。
広場の中央東側に位置するのがカステッロ(城)もしくはパラッツォ・ピオ(ピオ家の館)である。その名の通り、ピオ家の居住した館で、ルネサンスの宮廷文化の舞台となった。
サグラ教会
広場裏手にあるこの教会の建物の基礎は八世紀のランゴバルト時代にもさかのぼるという。現在残る建物自体は、十二世紀のものである。また、アルベルト三世による広場の整備が行われた際、サグラ教会に代わる大聖堂の建設が決まり、機能的な重要性は失う。さらに、広場拡張のために、教会全体が約3分の1に縮小された。現在残る教会正面の部分は従ってルネサンス期のものにあたる。脇にそびえたつ塔はもともとは、ちょうどモデナのドゥオモと塔との位置関係とほぼ同じであったといわれる。
大聖堂
マルティリ広場に面しており、アルベルト三世の命で1515年に建設が始まった。だが、1525年には、建設は中断されてしまい、完成するのは、十九世紀後半になる。
シエナのサン・ベルナルディーノ教会
1605年頃に建設が始まった。内部はルネサンス様式で十九世紀後半に完成される。このシエナのサン・ベルナルディーノは、カルピ市の守護聖人でもある。
フォッソリ地区
第二次世界大戦中にイタリア国内に建設された4つの強制収容所(ボルツァーノ、クネオ県ボルゴ・サン・ダルマッツォ、トリエステ県リジエラ・ディ・サン・サッバ)の内の1つがフォッソリに残されている。収容者は、ここから鉄道で、アウシュビッツへと移送された。カルピの鉄道駅には、そのうちの一人である、ユダヤ系イタリア人作家、プリモ・レーヴィの作品の一節が壁に刻まれている。残念ながら、収容所の保存状態は決して良いとは言えないが、マルティリ広場の城内に、強制収容所の博物館があり、収容者の遺留品などが展示されている。
交通アクセス
電車でのアクセスは次にあげる通り。
1、モデナから
・ヴェローナ、もしくは、マントヴァ行きへ乗り、一駅。
2、ボローニャから
・ヴェローナ行きに乗り、約30分ほど。
・ミラノ行きに乗りモデナで乗り換え、ヴェローナ、もしくは、マントヴァ行きへ乗る。モデナから一駅。
3、ヴェローナから
・モデナ、もしくは、ボローニャ行きへ乗る。所要時間1時間30分~2時間。
4、ミラノから
・ボローニャ方面の電車に乗り、モデナで乗り換え
5、ヴェネツィアから
・ミラノ行きの電車に乗り、ヴェローナで乗り換え。
車でのアクセス
高速道路A22モデナ-ブレンナー線上にある、カルピインターチェンジで下りる。