ジギタリス |
城の扉を開け放つ事が、開戦の合図となるのだろう。 ・・・別に戦争を引き起こそう等とは思っていないが、わずかな蟠りをもこの因縁の地に残したままのうのうと逃げ帰ることだけはどうしてもできなかった。 本当は独りで解決しようと意気込んでいたのだが・・・現実的に今のこの状況、魔法の一つも使えない小娘である自分がたったの一人でどうにかできる問題ではないということが・・・いくらか冷静になった今、嫌と言うほど、身に染みる。 扉の取ってが、ガタガタと震えている。 ”あちら側”で結界のわずかな隙間を突こうと、あの黒い液体人間・・・通称”ゴム人間”の大群が群がり、犇めき合っているのだろう。 ・・・あまり想像したくない光景だが。 今まさに自分たちは、そこへ出て行こうとしているのだから・・・笑えない。 今更、怖気付いたわけではないのだが。 その扉の寸前に背中を預けて立ち、視線はそれでも扉の方へ向け、ハウルは気配を読みつつ機会を探っているようだ。 こういう時の彼の表情は、ドキリとするほどに精悍だ。 明らかにハウルが自分よりも(恐らくは)年上の男であり、強い魔力を誇る魔法使いであるということを物語っているようで・・・ソフィーは少しだけ、彼を遠くに感じた。 そんな彼女の心境には全く気付かないハウルは、微笑すら交えて言った。 「あ〜あ・・・サリマン先生、どうやら飼い犬に手を噛まれたみたいだね」 「・・・飼い犬?それって・・・あの人たちが?」 「ん・・・」 ソフィーの問いに、ハウルは少しだけ眉をしかめた。 ・・・どうやら、結界が長くは持たないということを背中で察したようだ。 結界に対する術は、カルシファーの意識が”あちら”に向けられた今、いくらか弱体化してしまっている。気を抜けばいつ突入されてしまうかわからない。 ・・・ちなみにここだけの話、”背中”が最も魔力の気配を読むのに適した部分だそうだ。それには科学的な根拠も、魔法学としての摂理も何も無い。 只、魔法使いというのは基本的に軍人よりも頻繁に命を張って仕事をする生き物だ。戦争がなくとも、同業者同士の争いが耐えない職業なのだ。 ・・・つまり・・・神経を使っているうちに、嫌でも背中が敏感になるのだという。 この状況を見ていると・・・どうやら、ハウルも例外ではないらしい。 「遠慮は無用だね・・・奴らはヒトじゃない」 「・・・え」 「イキモノでもない。・・・魔法の塊さ」 「・・・あの、ひと・・・たちが?」 ・・・気のせいだろうか。 今。・・・あの、ハウルが。 滅多に感情を露にしない、あのハウルが。 ・・・小さく、・・・舌打ちをしたような。 「で、でも・・・あのひとに掴まれたとき・・・ちゃんと体温も感じたわ」 「・・・」 「それに・・・ガラスの破片が飛び散ったとき・・・あのひとにも当たって・・・指に傷ができたのも見たわ。すごく痛かったから・・・あんまり自信はないけど・・・」 「・・・そう」 急に空気が重くなったことを察し、ソフィーがハウルを抑えようと無造作に言葉を並べ立てる。けれど咄嗟な思いつきは決して良い答えへと導いてくれるものではない。 ソフィーの必死の密かな努力も空しく、ハウルの返事は素っ気無い・・・ ・・・、いや?・・・どうやら素っ気無い、というわけではないようだ。 どちらかというと、そんな冷たさではなく―――烈火のような何かを感じる。 ・・・烈火の、ような。 ・・・あ。 しまった。 ソフィーは、今更自分の失言に気付く。 今、ここでそんな話題を持ち出すべきではなかった事に、何故自分は気付かなかったのだろう。もっと良く考えてみればすぐに理解できたであろうことなのに。 「・・・あのね、ハウル」 「・・・」 「い、痛かったって言っても・・・ほら、私って堪え性がないじゃない?痛いってことに慣れてないだけで・・・大袈裟よね、ごめんなさい・・・」 「・・・」 「ちょっといじめられたくらいなのに・・・ね、私ったら」 ・・・なんだろう。 弁明しようと語れば語るほど・・・どんどんドツボに嵌っていくような。 しかし、ここで少しでも彼の・・・形容しがたい、彼の中に迸りつつある”何か”をここで抑えておかないと――只でさえ扉の向こうは地獄であるというのに、ますますエスカレートしてとんでもないことへと発展してしまいそうな気がしたのだ。 ゆえに、頑張ってはみたのだが・・・。 「・・・ソフィー」 「・・・はい」 どうやら、そんな生半可な言葉では。 「拉致されて、勘違いでありもしない魔力を強奪されて」 「・・・」 「精神すらも侵されて、心を失いかけて」 「・・・」 彼の中に、確実に迸っている、それを。 「頭を掴まれて、ガラスに叩きつけられて、大怪我までして」 「・・・」 ・・・止められることなど、できない。 「危うく死にかけたことが・・・”ちょっと”?」 「・・・」 否。 止められる、わけがない。 「あれは元はサリマン先生の”術”さ。・・・僕はあの魔法が世界で一番大嫌いなんだ。ヒトの形をしていて、身体の中には紅い血が流れてる。・・・そうやって威嚇しているんだよ。あれを消すということは・・・つまり、ヒトを殺す事と同じ痛みを感じなければならない・・・こちらが、ね」 「・・・・・・」 「・・・さすがサリマン先生。僕も奴が術だなんて思いもしなかった。怖がったり挑発してきたりしたから、すっかりヒトだと思い込んでしまったのさ」 だから、ギリギリまで手加減してやったのに・・・と。 やはり聞き間違い等ではなかったらしい彼の舌打ちを、ソフィーは再度耳にした。 ここまで感情を露にするハウルも珍しいのに・・・よりによって怒っている。 完全に怒っている。完璧に怒っている。どう見ても怒っている。 いつもは平然とやり過ごすソフィーだが、今回ばかりは冷静ではいられない。 魔力の調子は良いと言ってはいたが本当に大丈夫なのか。 無理をしなければいいのだが・・・と、結局はハウルの心配ばかりが心に浮かぶ。 「見抜いていれば生かしておかなかった。術は根から腐らせないと次から次へと増殖するだけなんだよ。・・・それに何より・・・君があんなに傷つくこともなかったのに・・・」 そしてまた・・・彼らしからぬ自己嫌悪。 これに関しては、ソフィーも一度だけ免疫がある。 以前自分が彼の名前を・・・そして、だんだんと彼に対してのみ言葉を発せなくなってしまったとき、自分の魔法が不完全だったとハウルは己を責めて泣いた。 ・・・彼は今も、あの時のような悲しみと屈辱を独り噛み締めているのだろうか。 誰にも気付かれないような、静かに迸る怒りに総てを隠して。 ソフィーは胸に痛みを感じた。 けれど、それと同時にそんな彼を心の底から愛しいと思った。 ・・・彼らしい理由で、彼らしい失態を招いた。 その”らしさ”が、ソフィーは嬉しく思えたのだ。 嬉しい、などといったらハウルは怒るかもしれないけれど・・・。 「・・・仕方ないわよ。ハウルは優しいもの」 「・・・、・・・え・・・?」 「あなたはとっても優しいひと。だからあの人達を殺せなかったのよ」 「・・・違うよ、僕はただ」 「あなたは優しいから」 ソフィーの、自分に対する弁明に言葉を挟もうとした彼を、彼女は強い意志を込めた一言と笑顔で押しとめた。・・・彼の言う”失態”を、”間違い”であった事にして片付けたくはなかった。彼の選択は間違ってなどいないのだと、伝えたかったのだ。 「それに・・・あなたは結局は、いつも正しいひとだから」 「・・・」 「だから、あの人達を苦しい想いをしてでも殺さなかったのよ」 ソフィーの言葉は、押し付けるような語調ではない。 只、素直に想いを彼へと、あくまで母親のように優しく、暖かく伝える。 ・・・愛を伝える時に、似ている。 「でも・・・いつだって正しいことが本当に正しいとは限らない。僕が奴らの正体を見抜けなかったから・・・殺さなかっただけなんだ。・・・だからソフィーがあんな・・・」 「私はいいの。だって無事だもの」 「どこが無事なのさ?・・・おかしいよ、君はどうして奴らを庇うの?」 そういえば、ここまでハウルと意見が対立したのは初めてかもしれない。 ・・・対立、というか・・・ただ話が少しだけこじれているだけなのだが。 いずれにせよ、言い合いのようになったのは初めての事だ。 しかしソフィーは一度伝えたいと思った言葉を見出せば、途端に強くなる少女だ。 尻込みなどは決してしない。 めげずに、堂々と、素直にソフィーはハウルへと想いを伝え続ける。 「庇ってないわ。私はただ、あなたが間違ってなんかいないって言いたいだけ」 「・・・間違って、いない?」 どうしても、わかってほしいから。 「あなたは只、あの人達を殺さなかっただけよ。それが例え術だったって見抜けなかったから・・・だとしても、ね」 「・・・」 「それに私は、今ここにいるだけでも充分”無事”よ。だってほら、元通りじゃない」 「・・・それは・・・そうかもしれないけど・・・」 彼の根底にあるそれを、彼自身に否定なんて絶対にしてほしくはないから。 「誰が、何と言おうとね」 それにソフィーは、彼の持つそれを、本当に愛しているから。 「誰が間違いだって、言ったとしてもね」 だから。 「・・・ひとが、ひとを殺すのは、いけないことよ」 「―――――・・・・・・・・・・・・」 分かって。 「甘いって、思われてもね」 お願いだから。 「もしあなたがあの人達を殺していたら、あなたはあの人達と同じになってしまうわ」 ・・・気付いて。 「そんなこと、絶対に嫌だもの」 「・・・ソフィー」 「だから・・・あなたは間違っていないの」 「・・・」 ふと。 彼の瞳が・・・今にも泣き出しそうに揺らめいている事に気付いた。 表情そのものは穏やかだが、・・・それはソフィーにしか見ることができないのか。 きっと、ここが彼の部屋で、彼とソフィーしかいなかったとしたら絶対に彼は泣いたに違いない。ハウルが子どものような素振りを見せるのは、あくまで彼女の前のみだ。 そして現在の状況も手伝って・・・彼はまだ、泣けないのだろう。 それが切なくて、少しだけ悲しい。 「・・・カルシファー。そろそろ結界が限界だ・・・準備はいいかい?」 一呼吸置いて、ハウルはカルシファーへと冷静に状況を伝え現状を問う。 ・・・言葉に対する返答が無いのはいつものことである。 ソフィーはいちいち気にしない。 それに、彼女はちゃんと分かっていた。 これが、彼なりのソフィーに対する返答なのだ、と。 「ああ。準備万端さ!」 「それは頼もしいね。僕は今から、誰からのしてやるか決めかねているところさ」 ハウルの背中越しの扉の振動が、次第に激しくなっている。 思い切り叩かれている、そのままの音に近い。 結界ごと破壊する気なのかもしれないが・・・。 「おいハウル、そろそろだぜ」 「ああ、わかってるよ」 「いちいち相手にしないで、眠らせちゃえばいいじゃないか」 「嫌だ。奴らだけはこの手でぶん殴らないと気が済まないんでね」 ・・・随分物騒なことを言っているが・・・”殺す”が”殴る”へ変わっただけでも充分の進歩だ。ソフィーの思いは最低限、ハウルへとしっかり伝わったようだ。 それだけでも十分、安堵できる。 けれど。 「じゃあオイラも、あいつらだけは踏み潰してやりたいな」 「・・・それはダメ」 「なんでさ」 ・・・どうやら伝わったのは。 「術は術で正しく解除するべきさ」 「ええ・・・だってあれは面倒だよ」 「なんでも」 最低限、などではない。 「傷つけることは、いけないことだろ?」 ・・・最大限。 否―――――――それ以上だ。 |