ジギタリス |
まるで、城が安堵のため息を吐いたかのように煙突から蒸気が噴出した。 事情により何度も壊れては崩れ、を繰り返したが・・・この城も、立派な家族だ。 そして、できることなら二度と崩したくは無い守るべきもの。 この城の住人の総てがそれを願ってやまない居場所。 「ハウルさん!!ソフィーーーー!!」 テラスの柵にしがみ付き、必死にこちらへ手を振っている小さな姿を見止めた時、ソフィーは心の奥に暖かなお湯が優しく浸透していくような感覚を覚えた。 ハウルに抱きかかえられたまま、その表情は本当の輝きを取り戻していく。 「マルクル!!」 ・・・そして、同時に不思議な気持ちにもなった。 ソフィーの記憶はハウルの部屋で二度寝をした所で途切れている為、事実上マルクルとは”さきほど”会ったばかりだというのに、何故かとても懐かしいような感じがしたのだが・・・それは当然のことだ。何しろ彼女が”眠って”いる間は感覚的には一瞬でも、ハウルたちにとっては長い長い道のりだった事に相違はないのだから。 「行こう」 ハウルが優しい声で囁くと、彼が手を触れてもいないのに温室の扉が自動的に開かれる。そしてその先には・・・容赦なく王宮の中庭を踏み潰して上陸した動く城の扉が聳えており、二人の帰りを待っていた。 ソフィーからではハウルに抱きかかえられ視界が悪くて確実な判断ができなかったが・・・その間にも後ろから何かが滑るように追いすがってくるような音が聞こえた。 ・・・それは・・・あの黒い、液体のようなヒトの足音に良く似ている。 間違いなくハウルもそれに気付いているようだが、彼はそちらには全く関心も示さず、構わぬまま扉を開け放ち、早急に城へと入った。 ・・・背後で扉が閉まる重い音と共にその不気味な音も消えた。 ゆっくりと降ろされ、瞬間軽い衝撃に襲われる。 突然のことに吃驚させられたが・・・すぐにその正体を察し、咄嗟に受け止めた。 ・・・本当に不思議だ。 ついさっきまで目の前にいたこの小さな少年が、まるで何年も会っていない母親と再会を果たしたかのようにしがみ付いてきたのだから。 ここで改めてソフィーは、自分が”眠って”いた間にどれほどの動きがあったのか・・・その重さを知った。決して、この城にとって自分が軽い存在ではなかったのだ、ということも今更。本当なら彼に想われている時点で・・・否、この城に受け入れられた時点で彼女は気付くべきだったのだ。 己の、存在の重さを。 「ソフィー!!大丈夫!?」 「大丈夫よ、マルクル・・・ありがとう」 こんな小さな子に、これほどの力があったのだろうか。 しがみ付かれているスカート越しに感じる幼い強さを感じる。 そして―――明らかなる弱さを。 ソフィーは、自らの放った礼にはじかれたように顔を上げたマルクルの・・・ その、表情を見て絶句した。 「ありがとうなんて言わないで!!」 「―――――・・・・・・・・・・・・」 そして、その言葉にも・・・胸を突かれた。 ・・・先ほどハウルが無数の槍に貫かれたあの瞬間の衝撃に似ていた。 あれほどではないが・・・何故だろう、系統は同じような気がする。 理由は分からないが、酷く痛い。 「僕はソフィーが連れてかれるのを黙って見てたんだ!!」 「・・・、・・・・・・」 「だから・・・ありがとうなんて言わないで!!」 とても、痛い。 この子に、こんなことを言わせているのは誰なのか。 この子に、こんな顔をさせているのは一体誰だというのか。 なぜ、こんなに小さな子がここまで自分を責めるのか。 こちらが掛ける言葉が見つからないほど。 ・・・そして、それは彼だけではなかった。 「・・・ソフィー」 パチン、と。 薪のササクレと火が擦れあって弾ける音。 ・・・そういえば、この音は毎朝必ず聞く音だ。 この城で、皆で―――”家族”で改めて生きていくことになったあの日から・・・この音をまず夢の中で聞いて、そして決まって目覚めればすぐそこにハウルが居た。 今思えば・・・この音が、彼を起こしていたのかもしれない。 一番の早起きはハウルではなく・・・”彼”だったのかもしれない。 「・・・カルシファー」 誰かが褒めない限り、彼は自分を驕(おご)ることはしない。 非常時は別だが・・・彼は黙って城の住人のために、気付かないところで力を使う。 優しくて、その癖意地っ張りで。 単純だけれど決して愚かなどではない――”悪魔”。 「・・・あのさ・・・」 「・・・なあに?」 それは、悪魔としては損なことなのかもしれない。 邪魔で、重苦しいものなのかもしれない。 「・・・ごめん・・・」 「・・・なにが?」 束縛にしか、ならないのかもしれない。 「・・・オイラの、せいで」 「・・・なんのこと?」 でも、それが。 「私はあなたに謝られるようなことをされた覚えはないわ」 彼が幸福でいる為の、代償だというのなら。 「で、でもさ」 「あのねぇカルシファー。私は怒ってもいないのに、謝られるのが嫌いなの」 「・・・」 それならば、それだけの。 「私が寝ている間に何があったのかは分からないけど、多分悪いのはそんなことにも気付かないで呑気に寝てた私よ」 「ち、ちがうよ!」 「違わないわ」 それ、以上の。 「・・・カルシファー」 幸福で、清算してしまえばいい。 ソフィーは、迷いもなく笑った。 心の中で蹲っていたあらゆる負の感情が・・・家族の言葉や訴えで浄化されたのだろうか。・・・いや、違う。痛みを与えられて――目が、覚めた。 やっと今、本当に眠りから目が覚めたような気がしたのだ。 「迎えにきてくれて、ありがとう」 「―――・・・」 「大好きよ」 「・・・」 心から、そう想った。 荒地から自分を拒むことなく城へと招きいれてくれたのは彼だ。 我侭な自分の言い分を、文句を言いつつも常に許してくれたのも彼。 出会ってから、今を感じて――彼に対する”好き”は、増えていくばかり。 人も悪魔も関係ない。 彼は、彼。 ・・・けれども。 「・・・カルシファー?」 どういうわけか。 「どうしたの?・・・もしかして・・・嫌だった?」 「ち、違うよっ!」 表情が、こちらでは分からなくなってしまった。 ・・・背中を向けたのだ。 色はなぜか・・・いつもの夕日色から、薄紅色へと変じている。 ソフィーはそれにきょとんと首を傾げた・・・が。 次第に不安になってきてしまった。 もしかして、自分が言った言葉の中にあった何かが彼の気分を害してしまったのだろうか。それとも謝罪を受け入れなかった自分に対して怒りを感じたのだろうか。 ああ、だとすれば何て手前勝手な酷い言葉を吐いてしまったのだろう・・・等と。 ・・・そればかりが心配だったが。 「それくらいにしてあげなよ、ソフィー」 「ハウル・・・」 カルシファーを見つめたままのソフィーにハウルが歩み寄り、やんわりとそんなことを言った。まるでソフィーがカルシファーをいじめているのを庇っているかのような物言いだが、不思議と腹は立たなかった。・・・自分を責めているような声色ではなかったからだ。 だがハウルはそれ以上この話題を続けることなく、黙ってソフィーの耳に触れ・・・相も変わらず高熱を発し続けているエメラルドのイヤリングを優しく外す。 「ごめん、こういう事にこれを使うのは初めてだったから・・・熱くなかった?」 「全然、気にならなかったわ」 「よかった」 ふっと微笑んで、彼はそれを再びピアスへと変じ、自らの耳へと付け直す。 ・・・ソフィーは、あのピアスはハウルの方が良く似合っていると感じた。 自分にはやっぱり、華やかな色合いは向いていない。 これは自分を蔑んでいるわけではなく、素直に感じたことだ。 ・・・等と、想っていると。 突然、彼のすこしだけ冷たい手がソフィーの手を・・・まるでダンスに誘う紳士のような仕草で優しくとったので吃驚する。 ・・・と。 指に、冷たい金属の感覚。 ・・・どこかで一度、明らかに感じたことのある感触だ。 それは―――指輪。 ハウルが以前付けていたものと同じだ。 只一つだけ違うのは、その宝玉が赤ではなく青だということ。 答えを求めてソフィーはハウルの表情を仰ぐ。 驚いていることは、隠しようがない。・・・そんな演技はできないし、ハウルの前では無意味であろうし・・・何より、そのような必要は無いだろうが。 でも、やっぱりハウルは結論を述べない。 今彼が伝えたいこと、想っていることを、只正直にソフィーへと語るだけ。 世界で一番、優しい微笑を交えて。 「前のは、壊れちゃったからね」 「・・・あ、あれは」 「うん。こっちの色の方が似合ってる」 「・・・」 「ソフィーがいつも着てる服の色と一緒」 「あ」 最初は、こんな色ではなかった。 あれは確か・・・そう。ハウルの変わりに”母親”としてキングズベリーに赴く際に彼が灰色に近いくすんだ服を、魔法で見事な青へと変えたのだ。 それ以来、結果的にソフィーはこれを気に入っており愛用している。 そういえばこの色は――星の色。 気付いた途端、ハウルの瞳が優しく微笑んだ。 それは確実に大人の男が見せる微笑だが――無邪気で、どこかあどけない。 等身大の、ハウルそのもの。 「ね、お揃いだ」 「えっ・・・?」 「僕の瞳と一緒だから。その色」 「――――・・・・・・」 そう。 ソフィーは、今・・・気がついた。 彼の瞳は・・・空でも、海でもない。 ――”星”なのだ。 流れ星というよりも・・・この、世界と言う名の地球(ホシ)。 突然、あの時のハウルの台詞が蘇る。 当時は彼が目覚めたことに安堵して、その言葉を率直なものとして受け止めた。 きっと彼自身も、率直に言っただけなのだろう。 こんなことを今更感じたのは・・・否、”自覚”したのはソフィーだけだ。 彼の、あの、言葉。 ”ソフィーの髪の毛、星の色に染まったね。・・・きれいだよ” 自分が受けた、あの呪い。 気がつけば、解けていた。 ハウルに、恋することで。 瞳の色は、自らの意思が反映されたのか何一つ変わらない。 服の色は、彼の魔法で、彼によって染められた。 けれど・・・髪は戻らなかった。 ・・・戻っていないと、思っていた。 だがそれは間違いだった。 老婆だったときの髪の色とは、系統が同じでも明らかに違う。 普段は銀色でも、光に透けると・・・わずかに虹色とまではいかなくても淡い青色を残す。一瞬で、消えてしまうほどの色合いだけれど。 ハウルが言うところの、星の色。 彼がそう称した時点で気付くべきだった。 何故なら彼は、ソフィーの髪の色を知っているはずだ。 少しも変わっていなかったとしたら、あのような言葉は放たないはずなのだ。 そう。 ソフィーの髪は、・・・ある意味、ハウルに染められたのかもしれない。 彼の瞳と、同じ星の色に。 彼を、愛しているから。 「・・・でも」 「ん?」 ・・・静かに、我に返った。 空想の世界から、ソフィーはゆっくりと現実へと視線を向けなおす。 「さっきの何かが割れる音・・・あなたの指輪が割れたのね」 「無理、させすぎたみたいだ」 悪戯がばれた子どものように、ハウルは笑う。 それにいつの間にかこちらへと向き直ったカルシファーがすかさず文句を付け足した。 「指輪だけじゃないぞっ!オイラにだって無理させたんだからな!」 「じゃあ君は僕が無理するなって言ったら放っておいたんだ?」 「うっ・・・!」 そして、ソフィーには全く内容の理解ができない喧嘩をしはじめた。 ・・・喧嘩といっても、どうやらカルシファーが食ってかかっているだけで、ハウルはそれをすんなりと穏やかにかわしているだけのようではあるが。 しかし、ソフィーはそんな喧嘩よりもカルシファーが元気になったことに喜んだ。 その喧嘩の原因も・・・指輪が割れた原因も、きっと自分。 それにカルシファーは、自分が”どうにかなった”理由を彼自身のせい・・・のようなことを言っていた。 家族というものは、こうして総ての痛みを分け合っていくのだろう。 「チェッ、オイラがいなかったら今頃死んでたくせにさっ!」 「感謝してるって」 「嘘つけっ!遅いとか本気でやってんのかとか文句ばっかり言いやがって!」 「言ったっけ?」 ・・・けれど。 「ああ、言ったね!」 「ありがとう、って言ったじゃないか」 「ああ、聞いたよ。文句のおまけ付きでね!」 「注文多いなぁ」 これはいい加減に止めたほうがよさそうだ。 ・・・痛いというか・・・馬鹿らしい。 上手い言葉は見つからなかったが、今思っていることを素直に述べてみた。 二度、手のひらを打ち鳴らす。 「はいはい、おしまい。・・・ありがとうカルシファー、あなたは縁の下の力持ちね」 「・・・なに、それ?」 よく父親が言っていた言葉だが・・・ここの住人はその意味を知らないらしい。 言語能力の高いハウルは、聞きなれずとも意味だけは大体分かるようだが、カルシファーは全く理解できないらしく、目をぱちくりとさせるだけ。 「誰も知らないところで頑張ってくれる人のこと。苦しかったり辛かったりしても、文句一つ言わないで私達のために頑張ってくれるじゃない?素敵よ、そんなひとって」 ・・・再び、炎は薄紅色へ。 瞬時にして大人しくなったカルシファーに、ハウルは悪びれもせず笑った。 「さすがソフィー、玄人だね」 「・・・どういう意味かしら」 すんなり聞けば褒め言葉としても取られるのだろうが、今の一言は少なくともそんな分野に入るような感じではなかった。 そんな彼女の不満に、邪気の無い笑顔・・・と思われる満面の笑みでハウルは答えた。・・・否。答えになどなっていないが。 だがハウルは構わずに、彼女のスカートにしがみ付いたままのマルクルに言葉をかける。彼と、視線を合わせるように少しだけ膝を折って。 どうやらマルクルの中で、目前でソフィーが行ってしまった、行かせてしまったという現実はかなりの痛みとして蹲っているようだ。 ・・・なぜか。 それを見て、ハウルはふと、マルクルと出会った時のことを思い出す。 幼少のうちから孤独を経験し、希少と呼ばれる魔法使いの弟子としてこんな・・・言ってしまえば、あまりにも奇天烈で不気味な動く城の門を叩いたのがマルクルだった。 当時、心を取り戻す遥か前。 ソフィーを見つけ出す、少し前。 あの頃、きっと自分は恐ろしく冷たい魔法使いだった。 カルシファーと契約をした後、念願だったサリマンとの別れを済ませ、自立してあの動く城へ移り住んで以来ずっと悪魔と二人暮らしだったわけだが・・・さびしいだとか、人恋しいだとか、全く感じていなかった。 朝起きて、生きるために必要な食事と、金を得るための仕事。 そして、夜が来たら必要なだけの睡眠を取る。・・・それだけの毎日だった。 思えば、マルクルが城の戸を叩いた事が一番最初の変革だったのかもしれない。 動く城としての歴史において、ハウルとカルシファー以外足を踏み入れたのは彼が初めてだったのだ。 だが、やはり何も感じていなかったあの頃の自分。 魔法使いになりたい、と必死に言い募るマルクルには冷たく「なりたいのなら、なればいい」と言い、住むところが無いと呟けば「ならここに居れば」と言った。 ソフィーのおかげで幾分か激しい”我侭”で”自分勝手”な部分はいくらか更生されつつある今、当時の己の行動は本当に恥ずべきことだったような・・・気がする。 話も聞かずに追い返すよりはよっぽどマシなのだろうが。 だが、城に部屋を与えただけだ。 弟子、とはいってもハウルは実際何も教えていない。 適当に魔法具と魔法書を与えたには与えたが・・・言語もろくに教えていないのにそんなものが役に立つはずがない。 そこで改めて感じたのは、この城の住人の、”自分以外”にとっての、ソフィーのその存在の大きさだった。さらに、彼女のすごさも思い知らされたような気もした。 マルクルに教えを講じたのは自分ではなくソフィーであって、この城において彼を世話を初めてしたのも自分ではなくてソフィーだ。 そんな彼女はマルクルにとって、母親・・・否、もしくはそれ以上の存在であったとしても何らおかしくはない。それはハウルとて理解していたつもりだ・・・けれど。 ・・・思っていた以上に、ソフィーの存在は大きかった。 どうやら、自分勝手な部分は完全に拭いきれていないようだ。 ハウルはソフィーを、あたかも自分だけの存在のように感じていたことも否定できないのだから。・・・否、臆病な彼であること、分かってはいてもそれを認めたくなかっただけなのかもしれない。弟に母親を取られたくない兄の心境と似たようなものだ。 ―――故に。 ハウルには、今のマルクルの感じているであろう痛みと苦しみと悲しみが、ここにいる誰よりも分かるような気がしたのだ。ほんの、少しだけ・・・なのかもしれないけれど。 「マルクル」 「・・・」 実際に・・・逆の立場であればどうだろう。 自分には、ある程度の力がある。 けれどマルクルには、役立つ魔法を使う力がない。 自分はその力を駆使して、形の上ではソフィーをどうにか救出することはできた。 けれどマルクルは逆に、為す術なく目前で彼女を連れて行かれた。 ・・・マルクルは、ソフィーのことが好きだ。 それが親愛であるのか、幼い仄かな淡い想いであるのかは判断できないが。 そんな彼にとって、自分の存在はどう映るだろう。 羨ましい、と感じるのだろうか。 妬ましい、と感じるのだろうか。 ろくな魔法を教えもしない師匠だと、責めるだろうか。 ・・・少なくとも、慰めの言葉などは・・・きっと、耳障りに違いない。 繊細な心を逆撫でしてしまうような気さえする。 何故なら、自分であればきっとそう思うに違いないから。 ハウルは、慎重に言葉を選ぶ。 「・・・守れなかったのは僕も一緒さ」 「・・・!」 まずは、自分の落ち度を認めること。 「それに君が何もできなかった事も、元はといえば僕の責任だ。ろくに魔法も教えていないし・・・面倒すら、まともに見なかった」 「・・・そ、そんなことありません!・・・ハウルさんは、・・・」 そして、その優しさに許されてきたことを、感じること。 「うん。・・・君ならそう言ってくれるだろうね。優しいから」 「ち、ちが・・・」 もう、独りではないのだと・・・伝えること。 「それに考えてもごらん。カルシファーだって自分のせいだって言い張るし、当のソフィーも私が悪いって言って譲らない」 「・・・あ・・・」 「それでもって、魔女のばあちゃんときたら・・・」 と、視線を窓際の方へと向け・・・椅子に沈み込むようにして熟睡している老婆へと視線を移す。先ほどまではしっかり起きていたくせに・・・ソフィーが帰還した気配を肌で感じたのか、どうやら安心しきって眠りこんでしまったらしい。 鼾までかいている。 ・・・あれで、照れ隠しだということは皆理解しているが。 「ほおら、あの通り呑気なもんさ」 「・・・・・・」 「ね」 「・・・」 全く、我が家族は似たもの同士で困ったね・・・と苦笑するハウル。 しっかりとその中に自分を含めているに違いないのであろうが。 「ここは都合よく、”誰も悪くない”ってことにしておこうじゃないか」 「・・・ハウルさん・・・」 「みんながそう思っているんだ。どうせなら気持ちよく解決した方がいいだろ?」 ・・・マルクルと、こんなに会話をしたのは初めてかもしれない。 少しだけ緊張したのも、きっとこれが初めてだ。 家族内で緊張することもあるのか・・・と、ハウルはこの時知ったのだ。 ・・・只単に、常に無神経にやりたい放題やっていたツケ、なのかもしれないが。 だが、それでもマルクルはその言葉に救われたようだ。 その円らな瞳には涙をたたえたままであったが、満面の笑みを浮かべて頷いている。 ・・・保護者らしい言葉を初めて言われて、嬉しかったに違いない。 その光景を黙って見ていたソフィーも、スカートにしがみ付いているマルクルの小さな手を優しく包み込むようにして布から外すと、そのまま両手で握る。 まるで、神に祈りを捧げるようにその手を組んで。 にこり、と笑って。 「・・・マルクルも、ずっと待っていてくれたのね」 「・・・うん・・・」 「・・・ずっと、心配してくれたのね」 「・・・うん」 ハウルの言葉が効いたのか、マルクルはもう自分を責めることはしなかった。 ソフィーの言葉に、素直に幼く頷く。 少しだけの後ろめたさを、そっとその背中にたたえたまま。 「ありがとう」 「え・・・」 憧れに近い、親しさ・・・その、不思議な暖かくてもどかしい感覚を抱えて。 「私、マルクルがそう思ってくれてたことが、とっても嬉しい」 「ソフィー・・・」 「ごめんね。・・・ありがとう。マルクルのこと、大好きよ」 嬉しくて、恥ずかしいような気もして・・・何故か、少しだけ切ない気持ち。 その正体は分からなかったけれど。 ソフィーが優しく抱きしめてくれて・・・もう忘れてしまった母親を感じる。 こんなに暖かかっただろうか、優しかっただろうか。 …思い出せないけれど。でも、悲しくは無い。 ソフィーがいるから。・・・ハウルがいて、家族が今の自分にはあるから。 マルクルは、そのぬくもりに微笑んで。 ・・・いたのだが。 次の瞬間、ソフィーは背中に重々しい衝撃を感じた。 正直マルクルが飛びついてくるのとはわけが違う、迫力と痛みだった。 下手をすれば吹っ飛んでいたかもしれない。 何事かと、今背中に抱きついている犯人を確かめようと後ろを振り向けば・・・。 なんと。 ・・・まあ、予想はしていたけれど。 「おばあちゃん!」 「約束は破るもんじゃないよ。まだ服を仕立ててもらってないじゃないか」 「あ・・・、・・・ふふふっ・・・、そうね」 ソフィーは、魔女が握っている・・・作りかけの服が皺だらけであることに気がついた。 きっと・・・ずっと、握っていたに違いない。 少しも、離さずに。 「これだから男は頼りにならないんだよ。いざって時にいい仕事をするのは女ね」 「年が明けるまでには、ちゃんと仕立てるわ。そうしたら・・・そうね、いっしょに街にお買い物をしに行きましょう」 「あらぁ、いいわねぇ!でもいろんな男に声をかけられちゃうわよぉ」 「そうね。でもおばあちゃん、心臓取ったら駄目よ」 言葉だけを聴いていると、老婆と少女の会話には聞こえない。 いくつになっても、やはり女は女なのだ。 ・・・若干、一般人は絶対に口にしない単語が混じってはいたが・・・。 ソフィーと魔女がそんな会話に花を咲かせている時、ハウルはカルシファーの居る暖炉の目前まで歩み寄り、今後の相談を始めた。 「・・・ヒンは?」 「傷なら癒したよ。今はぐっすりマルクルの部屋で寝てるさ」 「そうか・・・ありがとう。・・・さて、とりあえず脱出だ。西の山脈を目指して飛んでくれ」 「いいけど・・・あっちは今、雪が降ってるぜ」 「気温が低いのか・・・厳しいかい?」 「楽じゃあないね。でもま・・・こんなところにずっといるのはごめんだし」 「同感だ。・・・とりあえず移動するだけでいい。今はここから離れよう」 「結界も、長くは持ちそうもないしね」 「全く、まいったね。呑気に暮らしたいもんさ」 「いくつだよ・・・ハウル」 「忘れた。数えてないもん」 「自分の歳くらい数えとけよな」 「でも別に、若さは偽ってないし。術を使ってたのは髪の色だけだからね。見た目の年齢は・・・ソフィーより少し上、くらいじゃないか?」 真面目な話から、急にどうでもいい話題へと転じ、話題上確認がてらソフィーへと視線を向け・・・偶然目があったのでにこりと笑って手など振ってみせる。 向こうも、しっかりこちらに合わせて微笑んで手を振ってくれたが。 そんな様を眺めつつ、カルシファーはポソリと呟く。 「・・・いんやぁ・・・下手したら、ソフィーよりも年下ぐらいじゃないか?」 「・・・何か言った?」 「西の山脈目指して、しゅっぱーつ!」 低い声でこちらを振り向いたハウルには目もくれず、カルシファーは調子よく掛け声を上げ自分の仕事を始め―――・・・ ようと、したのだが。 思わぬ、異見者が現れた。 「待って!」 それに驚かされたのは、カルシファーだけではない。 きっとこの城の住人総てがそれに驚愕したに違いない。 「・・・ソフィー?」 ハウルが、驚いてその名を呼ぶ。 一番ここを離れたがっているのは、彼女だと思っていたからだ。 あれだけの暴力を受けて、知らないうちに連れ去られて、心まで奪われかけた。 そんな恐怖の対象でしかないこの場所は、忌むべき場所であってもおかしくはないのに―――なぜ、ソフィーは待てというのか。 「・・・なぜ?」 「・・・ねえハウル。あのひと達は、サリマンの仲間なの?」 ・・・しかし、このたった一言で・・・ハウルは何もかもを悟ってしまった。 実にソフィーらしいとも思ったが・・・。 正直――人が良すぎる、とも思ったことも事実だ。 「いや、仲間じゃない。手下だよ」 「あの人たちは、サリマンに忠誠心とかあるの?・・・ほら、王様と騎士みたいな・・・」 そんな問いに正直に答えたら、きっとソフィーはまた・・・奇想天外な行動にうって出るだろう。・・・分かっているのに・・・何故、答えてしまうのだろう。 「奴らにそんなものはないさ。いつか這い上がろうとばかり考えてる」 「・・・」 「忠誠どころか、王宮を憎んでいるからね」 ・・・でも。 そうでなければ。 「・・・それじゃあ、サリマンは今、危ないのね」 「・・・そうかもしれないね」 ・・・そうで、なければ。 「・・・決めたわ」 「何を?」 「私、あの人を助けにいく」 そう、こなくては。 「このまま見捨てて逃げたりしたら、夢見が悪いもの」 「・・・」 「でも、みんなを巻き込むつもりもないの。・・・独りでも、行くわ」 ソフィーでは、ない。 ハウルは、苦笑した。 本当に、まいってしまった。 ・・・こんなことを彼女が言い出したら・・・誰も逆らうはずがないではないか。 あんなでっかい働き蜂が飛び交っているような蜂の巣に、誰が独りで彼女を行かせるものか。それにソフィーは気付いていない。彼女が行くと言った時点で、充分皆を巻き込むことになっている・・・ということに。 「・・・だってさ。どうする、みんな?僕は行くけど」 ハウルが、ソフィーを見つめたまま声を上げる。 一番最初に答えたのは、カルシファーだった。 「冗談じゃないよ!ここでソフィーを置いてったほうがよっぽど夢見が悪いじゃんか!」 「・・・マルクルは?」 カルシファーの返答はもはや分かりきっていたが・・・ハウルは続いて、こちらも同様に分かりきっている返答をマルクルへと促す。 「もう、お留守番も嫌になってきたとこ!」 「魔女のばあちゃん・・・は、謹慎だな。危険すぎる」 その”危険”は、決して魔女の心配をしているわけではなく、魔女によって引き起こされるであろうトラブルを危惧してのことだ。 そんなことを呟くハウルに、魔女の老婆はきょとんと目をぱちくりとさせるだけ。 知らぬが花、という言葉もある。 「ハウル・・・」 皆の答えが一致したことに戸惑いながらも、ソフィーはハウルを案じているようだ。 臆病な彼であること、ついてくるなどとは思ってもみなかったのだろうか。 本当にいいの、と瞳がこちらに問いかけてくるようであった。 何しろ身代わりにソフィーを出向かせるくらいに、ハウルは王宮を嫌っている。 それを知っているソフィーだからこその心配だろう。 けれど・・・ハウルは瞳を細めて微笑んだ。 「・・・また離れ離れになるくらいなら、ちょっと危険な方がまだマシさ」 「・・・」 「それにソフィーが一緒だからね。・・・魔力の方は絶好調さ」 「・・・さっき・・・沢山の魔力を私にくれたじゃない。・・・大丈夫なの?」 「ああ・・・それなら平気だよ。カルシファーが助けてくれた」 ・・・実際、今のハウルは、自分自身の魔力の底がつかないことに驚いている。 ソフィーがいるといないとでは、ここまで調子が違うのだ。 一応計算して、”毎晩””少しずつ”が妥当だと思っていたのだが・・・あの時はとっさだったとはいえ、かなりの魔力を消費したはずであった。 ・・・けれど、本当に今は”絶好調”なのだ。 「でも、やるからにはしっかり土台は固めよう。・・・ソフィーは、僕とカルシファーが援護するからサリマン先生の所へ行って」 「・・・はい!」 「マルクル。城の扉を守ってくれ。カルシファーはこっちに神経を使うから手薄になる」 「えっ!?で、でも・・・」 「大丈夫。実技の修行だと思えばいいさ。・・・後で魔法書を渡すから、それを参考にしながら戦いなさい。・・・出来る限り、僕がしとめるけどね」 先ほど背後で感じた気配は、まるで細胞分裂を繰り返すかのように膨大な量へと増殖していたような気がする。・・・恐らくは、・・・あの、”鼠”は・・・。 等と考えを巡らせつつ、ハウルは魔法書にペンを素早く走らせ何かを綴っていく。 「マルクル、ラテン語は?」 「・・・わ、わかりません・・・あっ、でも数字くらいなら!」 「上等だ」 に、と不適に笑い、ハウルは片手で分厚い本を閉じ・・・それを彼へと手渡す。 マルクルは慌てて受け取り・・・その重さに、あたふたと右往左往を繰り返す。 「数字以外は、訳してある。これなら君にも解読できるはずだ」 「・・・」 「いいか、マルクル。魔力なら、誰の中にもあるものだ。・・・大事なのは、それをどう扱うかさ」 「・・・、はい」 「必要なのは、力じゃない。・・・自分の心を信じなさい」 「はい!」 魔法の強さは、意思や心に比例する。 ・・・マルクルであれば、その意味では充分期待ができる。 ハウルは手加減なしに、彼へ大事な任を与えたのだ。 それに・・・正直。 この扉の向こうは―――――地獄に違いがないからだ。 |