ジギタリス





貫いていた槍が、全て引き抜かれ。
空中に、紅き花が舞う。


生々しい、音。


混ざり合う黒と赤。
羽を伝い―――どす黒く染まっていく。
とめどなく流れ・・・ソフィーは必死にそれを止めようと、細い手で数箇所に及ぶ傷口を必死に押さえこんだ。どんなに押しとどめようと全身の力を込めても、それは指の隙間から逃げるように流れ出し留まることを知らない。
両手のみでは追いつかず、ソフィーはハウルの背中を縋りつくように抱いた。

・・・まるで、どこにも行かないでと駄々をこねる子どものように。

青い服が・・・紅く、染まっていく。
銀の髪も、次第に赤くそまり―――かつてのあるべき色を皮肉にも取り戻していく。






「・・・いや・・・」






全てが。
彼の出会う前に戻されていく。






「・・・・・・・いや・・・・・・!!」






彼の知らない自分になっていく。






「嫌よ!!そんなの!!」





彼の全てが消えていく。





「許さないわ、こんなこと!!」





・・・希望は。





「どうして!?」





その、強い。





「どうして傷つけるの!?」





悲しいまでに、強い。





「サリマン!!」





愚かなまでに、優しい。





「どうして!?」





ひたむきなまでに、切ない。





「あなたにだって・・・!!」





・・・その。





「あなたにだって分かるでしょう!?」





一途な。





「私の今の気持ち!!・・・あなたにだって!!」








・・・”こころ”。












――――――瞬間。









魔法陣から感じる圧迫感が揺らいだ。








・・・どういうわけか。


それまで強固な姿勢を貫いてきたサリマンの双眸が・・・戸惑いに、揺れていた。
杖を翳していたはずの利き手が・・・中途半端な高さへと下げられている。

恐らくは、この王宮の誰もがこのような彼女を見たことは無いだろう。
常に微笑を浮かべてはいるが、それは無表情に等しいものだ。
彼女の感情の動きを、誰も目の当たりにしたことがないはずだ。


かといって、表情がそのまま・・・ということではない。
あくまで、静かに。
あくまで、穏やかではあるが・・・その瞳だけがわずかに揺らめいているだけ。



それを、見て。





―――――彼を貫いたのは、サリマンではない――――――









そう、ソフィーが悟った瞬間。






温室に身を潜めていた・・・王宮には似つかわしくない容貌の男が4人ほど、ソフィーを取り囲むようにして並んでいた。


その視線は―――まるで、品定めをするかのようなもので。


ソフィーが一番嫌いな、戦いの臭いをさせ、下品な眼差しで舐め、血をもって時を紡ぐヒトの形をしたバケモノの類であった。
それはヒトであって、狂気に魅せられ、ヒトでは無くなってしまったモノ。


戦争が生み出した、悲劇の産物だ。



・・・内、男が一人。
前に、歩み寄り。


他の男達は、表情も無くその情景を傍観しているだけだ。
・・・まるで、その意思は仮初のものであるかのような


目に意思が在るように見えたのは、その一人だけであった。


その男が。


ソフィーの髪を鷲掴みにする。


必死にハウルを助けようとしていたソフィーだが、所詮は少女の力、大の大人の男の暴力の前には為す術もなく、そのまま全ての体重を奪われ、彼から引き離される。



「っ・・・!」
「よぉ・・・星の髪した天使さんよ。俺の顔を覚えてるかな?」
「・・・、・・・しら・・・な・・・」
「はっ、忘れたとはねぇ・・・随分白状な女じゃないか!」
「!!」



・・・後頭部に、衝撃が走った。
髪を掴まれたまま、そのまま温室のガラスの壁に叩きつけられたのだ。
瞬間、刺さるような痛みを感じたのは・・・ガラスが割れたためだろう。
額に、ぬるりとした生暖かいものが伝っていくのを感じる。


・・・鮮血。



「あんたに関わったおかげで、俺はあんたの男に優しくしてもらってねぇ・・・」
「・・・っ、・・・・・・・」



その”男”というのは、彼のことであるということは聞かずとも知れた。
どうやら、自分を再び老婆にする呪いを掛けたのはこの男のようだ。

・・・だが、やはりソフィーはこの男の顔を知らない。

それもそのはずだ。
意識を失い、眠った状態のまま無理やり身体を操られたのだから。
・・・覚えているも何も、知るわけがないのだ。
ソフィーは、それ以前に全てを知らないのだから。


けれど、ハウルがそれを知っていて、この男に何かしらの報復のような行為をしたであろうことは無意識のうちに悟った。


明らかに、この男がその憎しみの対象を自分へと移しているであろうことも。



「仲良く石になって冷たい水で川遊びをさせてもらったんだよぉ・・・?・・・ええ!?」
「つっ・・・!!」



もう一度。
後頭部に、衝撃。



「まあ、こうして無事に生きてることに感謝しないとなぁ・・・王宮のオエライさんにも感謝感謝だ・・・こうして面白おかしい遊びができるんだもんなぁ・・・」
「・・・、・・・・・・・・」



・・・せいぜい、ハウルに痛めつけられた後、サリマンの手下に救ってもらった口だろう。
自分の力で危機を脱したわけではないようだ。

・・・だが、そのようなことなど、今のソフィーにはどうでも良いことだった。
ハウルを早く手当てしなければ、取り返しのつかないことになる・・・
そればかりが彼女の中で飛来する。



「おやぁ?・・・寝るには早い時間だぜぇ、お嬢ちゃん・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・」
「・・・ああ?きこえねぇなぁ・・・」
「・・・、・・・」



だが、あまりの激痛に、言葉が紡げない。
衝撃で唇を噛んでしまったのか、口内においてでもさびた味が占めた。
・・・意識も、朦朧としてきた。






けれど。






「・・・ぅ、・・・・」
「ああ?」
「・・・っ、・・・・ぅ・・・」
「なんでぇなんでぇ?・・・本当にこんな小娘に王はビビッてやがんのかぁ?何の魔力も感じやしねぇぞ・・・すげぇ魔女なら女にしてやってもよかったんだがなぁ」




・・・魔力?
王が、自分を恐れている?

・・・そんなの、知らない。どうでもいい。




「・・・・・・ぅ・・・・、・・・・・る」
「・・・なにぃ?」
「・・・、・・・ハ・・・、ウル・・・」





そんなことよりも。





「・・・ハ・・・ウ・・・ル・・・」




失いたくない。









ソフィーは倒れ伏した彼に震える手を差し伸べ、ただ一心に、彼の身を案じる。

今の彼女の頭の中に、自分の身を案じる考え等は何処にも無い。







「・・・ハウル・・・」







けれど。


・・・そんな彼女の行動が、この男・・・”鼠”の憎しみを更に煽った。
ソフィーの髪を掴んだまま、逆の手で短剣を振りかざす。

瞳に、狂喜の色を称えて。





「若い女の心臓はなぁ、魔力を大量に増幅させるんだよ。・・・あんたの心臓も・・・可愛い音が鳴るんだろうなぁ・・・」
「・・・・・・・」
「抉り取ってやるよぉ!!男の元へ逝きなぁ!!」
















胸を。














貫く――――――・・・・・・・・・・・・・・・・・





























・・・寸前!























パキン!!!


























固いものが弾けたような音がした。
金属音だが、なかなか聞けないような玲瓏な音だ。


ソフィーは以前に一度だけ聞いたことのある音だと、空ろになりかけた意識を振り絞って・・・自分がまだ、息をしていることを知る。


・・・観れば・・・短剣はまだ、自分を貫いては居ない。




否。





貫く前に――――寸前で、止まっている。















ソフィーは一気に目が覚めた。
・・・思えば・・・後頭部に感じていた痛みも、徐々にではあるが引いてきている。


何かと思って顔を上げれば、その視線上には杖を翳したサリマンがいて。
男の動きを止めているのではないか―――・・・?



彼女が、絶命の危機を救ってくれた・・・ようではない。



サリマンの杖から放たれている淡い光は、目をこらせばソフィーの顔を包み込むように優しく輝いている。・・・痛みが引いていくのは、彼女の癒しの術なのだ。






ならば。




この、目に見えない結界は。












「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!」















その答えは、すぐに分かった。
・・・左の耳が、熱いのだ。



・・・それは。



彼が倒れる寸前に、彼女へ付けてくれた、あのエメラルドのイヤリングであった。


それが熱を発し、まるで怒れる炎のように威力を上げ、男の短剣を止めているのだ。当然、”鼠”は突然の予測不可能な事態に驚愕するだけであったが・・・。













それは、同時に。













”鼠”達にとっては――――――――”恐怖の再来”であった。























割れた音は、イヤリングではない。
イヤリングは健在で、しっかりとソフィーを守っている。
そして、サリマンの術でもない。
彼女はどういうわけか、優しくソフィーの傷を癒してくれている。







ならば。








何か。











・・・いや。















・・・そんなもの、聞くまでも無い。



























「・・・勝手に、殺さないでくれないか・・・」


























ゆっくりと、起き上がる・・・細身の長身。

















「カルシファー・・・ちょっと遅かったみたいだよ。・・・本気でやってんの?」





















その背中には・・・黒き翼はなく。
























「・・・ああ、わかってるさ。悪魔は癒しが苦手だからね・・・」




















先ほどの。
今にも消えそうな、儚さなどは微塵もなく。





















「・・・ああ・・・それもわかってるさ。・・・今の僕は、すこぶる機嫌が悪いんだ」
















その、足で。
しっかりと、立って。






ふらつくことも無く、いつものあの優雅さで。







真っ直ぐ・・・驚愕する鼠などには構いもせず、割れたガラスに叩きつけられたまま、呆然とそんな彼を見上げるソフィーの元へと迷い無く歩みよる。











そして、膝を折って。















視線が、合う。

















「・・・ソフィー・・・」










そう、言って。


頬を撫ぜる手にはもはや黒き羽毛も、鋭い爪もない。
白い、細く美しい美青年の手だ。





その、右手には。





どういうわけか、いつも彼が身につけていたはずの指輪が・・・無い。









「・・・すまない・・・」
「・・・・・・・・、・・・・・ハウ・・・ル・・・・・・」
「・・・さあ、帰ろう。僕たちの家に」










先ほどの、恐ろしく掠れた低い声は聞き間違いだったのだろうか。
実に優しく、心に染み渡るような少年らしい彼の言葉と声に・・・ソフィーは今までこわばり続けてきた肩に篭っていた余分な力が一気に抜けていくのを感じた。


・・・けれど。


今の彼女は、彼が・・・どうして傷が癒されたのかは分からないが・・・とにかく、無事であることに安堵して、心身共に力が抜けてしまったようだ。

いつもであれば瞬時に気付く彼の異変に、全く気がつかなかった。
その青い瞳が・・・いつもの静かに揺れる海面では無くなっていることにすら、気付かなかったのだ。声と、言葉と、優しい手のぬくもりだけで、安心してしまったのだ。






ハウルに優しく促され・・・抱き起こされる。
そして彼女を横抱きにして、背後の”鼠”やサリマンには目もくれず温室の側面にある出口へと歩を進める。




・・・が。




”鼠”は、心底ハウルを憎んでいたようだ。
長年王室の”草”として、溝に住まう”鼠”としてそれなりに使われてきた彼にとって、彼との戦いに置ける無残な敗北は許されないことであったのだ。
・・・汚い面を見せるのも、そうならざるを得なかったからかもしれない。
ハウルにとってはソフィーを傷つけた憎むべき相手であるが、”鼠”は”鼠”として、こういった生き方しかもはやできないのだ。・・・後戻りができない。

王宮の繁栄と、王の力の過信が生んだ―――悲しいケモノ。



・・・ハウルはそれを知っていたからこそ、命を奪わなかったのかもしれない。
もとより手を汚すことを嫌う彼ではあるが、ソフィーにあのような仕打ちをしたこの”鼠”故に、通常であれば命を取られても何ら不思議も無かったはずなのだ。


けれど、これが戦争が生んだ産物であるのなら。


彼らのみの罪ではないことを。
責めるべきは、この男たちのみではないことも、分かっていた。


分かっていたからこそ―――――ギリギリの理性を振り絞り、生かしたのだ。
呪術は残酷なものを使用したかのように思えただろうが・・・あれはまだマシだ。
解ける呪術など、生易しい内に入るのだ。
中には――――苦しめた挙句、命を奪い取る呪いも存在するのだから。


ハウルにもその手段はあった。
しっかりと、そのカードは彼にも選定することができたのだ。



けれど、それをしなかった。




しなかったのは・・・彼の、鼠に対する最後の優しさと。
ソフィーがそれを知れば・・・きっと傷つくであろうという、愛情と。
戦争と国家に対する、反感が織り成され、得られた結論だったのだ。





・・・だが。






今の、この、ソフィーに対する仕打ちは全く別物だ。




どうやら、サリマンの命令ではない。
でなければ、彼女がソフィーの傷を癒した理由が分からない。
それにマルクルが城で起きたことを説明してくれた際に教えてくれた、”サリマンがソフィーを殺そうとした”あたりの件(くだん)も、実際サリマン本人であったかどうかも怪しい。マルクルはまだ魔術に関しては未熟故、ハウルのように容易く本性を見抜くことは不可能だ。・・・第一、城に居た時分からそう時間は経っていなかった。サリマンはハウルとの静かなる戦いにより事実上呪術にはまり敗北し、魔力の半分は消失した。
挙句の果てには、魔力を安定させ、溜め込んでいた礎であった杖もハウルによって破壊されてしまったのだ。・・・今の彼女に、そんな力があるとは思えない。


ソフィーの”精神世界”へハウルが行けた理由は彼にもわからない。
だが、サリマンによるものではないことは確かであった。


しかし、帰還した際に・・・魔力の気配を捕まえられたのだろう。
魔力が底をついたハウルでは、サリマンの攻撃呪縛を防ぐことはできなかった。
・・・結果、こうして捕まえられてしまい、来たくも無い王宮にいるのだから。





・・・そう。








だから、ハウルは。









「・・・先生・・・」
「・・・・・・・・・なんでしょう」








今度こそ、本当に。








「本来であれば礼を言う所なのでしょうが・・・災いの種も元はと言えばあなたですから・・・敢えて申し上げません」
「・・・・・・・」
「あなたもかつての僕と変わりありませんね。・・・その、右腕」
「・・・・・・」
「魔力の使いすぎですね・・・すっかり石化している」






容赦なく。






「・・・あなたがそこまで王宮に尽くす理由は何?」
「・・・・・・・」






はっきりと。






「不思議ですね。・・・僕はかつての弟子ですが・・・全くあなたを案じる感情が沸かないのです。・・・それなのにソフィーは・・・あなたの異変にすぐ気付いた」
「・・・・・・・」
「それが、どういうことか分かりますか」
「・・・・・・」
「本当に・・・僕やカルシファーがソフィーに従う理由を、”魔力”だとお思いですか」
「・・・・・・」
「あなたが、ただ単に・・・それを認めたくはないからではないのですか」
「・・・・・・」
「あなたが得たくても、得られなかったもの。・・・それをソフィーが持っていたからではないのですか。・・・まあ・・・王様がソフィーを恐れるってあたりは・・・事実でしょうが」





・・・振り向いて。


かつては恐ろしくて直視できなかった、かつての師の双眸を見据える。





「・・・僕は力を捨てて、大切なものを得ました」
「・・・・・・」
「けれど・・・結果的に。それは僕の力を増幅させることになりました」
「・・・・・・」
「打ち勝つためじゃない。強くなるためじゃない。・・・守るために」
「・・・・・・」





迸る怒りを押さえ。




「僕はこの国がどうなろうと構いません。・・・僕らの”国”に危害が及ばない限り、手を出すつもりはありません。・・・けれど・・・これだけは言っておきます」





大分、時間が掛かってしまった・・・ソフィーとの、暗黙の約束。
臆病なだけであったかつての自分と、決別するために。



これから、きっと・・・長い人生。



ソフィーと、幸せに暮らしていくために。








ハウルは。







笑顔を交えて、堂々と言った。




















「くだらない戦争は、止めなさい」






















彼に力を込められて横抱きにされたソフィーは、はっと顔を上げる。
どこかで聞いた台詞だと思ったのだ。
ふいに自分が言った言葉であったということを、半分は忘れかけていたのだ。



・・・そして。
ハウルは、ふいにソフィーへと視線を移して子どものように笑った。


けれどもすぐに再びサリマンのほうへと顔を向け。




颯爽と言った。

















「僕は、手伝いません」


















その、横顔は。
今までソフィーが見た中で、一番美しかった。





・・・と、同時に。




温室のガラスが、一定時間置きに何かの振動を察して奮えている。
まるで、彼方から何か巨大な生物がこちらに向かってくるような音。



バサリ、バサリと―――――・・・




ソフィーは、はっとする。
この音は紛れも無い、”あの”音に違いが無かった。
その振動は大地を奮わせるだけではない・・・心を弾ませる、愛しい音。
暖かく、かけがえのない―――家族の、鼓動。




ハウルは、ソフィーを見て無邪気ににこりと笑って。
温室の窓―――・・・否。




空を仰いで声を上げた。









「さあ、みんな!我が国の王様のご帰還だ!」








・・・王宮を踏み潰してしまうほどの、それは。
ハウルの声を合図に、今まさに、それを受け止めるには狭すぎる中庭へと降り立とうとしていた。幾つもの蒸気と、部品と部品がこすれる、錆びた金属音。そして、人一人を軽く飛ばしてしまうほどの、その強風を煽る轟音。


サリマンは只それを・・・少しだけ驚いたような眼で見上げ。
”鼠”達はその存在に、恐れを為した。
中には風に飛ばされ、壁に叩きつけられる者もいた。



けれど、その中で何故かハウルとソフィーだけはびくともしなかった。
まるで強風が二人だけを避けているように見える。


・・・いや、実際に避けているのだろう。


”それ”は、ハウルとソフィーにとても優しいようだ。







・・・それも、そのはず。







それは。











ソフィーとハウルの、動く城。