いつか、不思議の世界で −1− |
千尋が不思議の町で不思議な体験をしてから、はや5年。 千尋はハクに会いたかった。 会いたくて、会いたくて。 その結果。 「ハク、きちゃった!」 嬉しそうに、千尋が湯屋に来たのは本当に突然で。 「…………!」 当然声も出せないくらい驚いたのは、ここの帳場役ハクである。 しかし、それもそのはず。 ハクは、この5年間千尋に会いたいと願い続けて、どうにか湯婆婆との契約を破棄にしようと血の滲むような努力をしてきたのである。 休む間もなく、働き。 必要なこと以外、誰かと話すこともなく。 それは、全くといっていいほど張り合いのない、孤独な生活で。 しかし、ハクはそれでも一向に構わなかった。 不思議と、苦痛とは思わなかったのだ。 そう。 契約さえ切れれば。 そうすれば、千尋に会える。 千尋に―――――――――触れることが出来るのだから。 そして、それだけを思い今日までやってきたのだ。 しかし。 そんな決意を固めていた自分の目の前で、たった今繰り広げられている光景はどうだろうか。 あんなにも会いたいと願っていた少女が。 身体付きを少女から女性へと変えて、目の前に立っているではないか。 ハク自身も時間の経過に伴って、それなりに背を伸ばすなどして成長の兆しを自分なりに見せてきたつもりだ。 しかし、千尋もハク同様ちゃんと成長し、りっぱに大人の仲間に入りつつあって。 「千尋………」 どうにか思考を動かして、ハクはそれだけを呟いた。 すると湯屋の皆にワイワイと囲まれていた千尋が、ふとハクの方を向いた。 自分の周りが賑やかなのにも関わらず、決してハクの声を聞き逃すことなく。 そして、笑う。 ハクに向けて。 「うん、ハク。ただいま」 ハクの心が―――――――――小さく鳴った。 聞けば、どうやら千尋はこの湯屋に短期従業員としてきたらしい。 普通なら、そんなこと湯婆婆が許すわけないのだが、そこはどうやら坊の泣き落としがきいたらしく。 千尋は、そのことをハクにポツリポツリしゃべりながら、笑う。 「私ね、ハクに会いたかったの。一緒にいたかったの」 ハクは、翡翠色の目を細めて見せた。 千尋は。 今一度この不思議の世界に足を踏み入れることで、再びもとの世界に帰れる保障がないと分かっていても、トンネルをくぐってきたというのだ。 ハクに会いたい一心で。 そのことに、ハクは胸を熱くさせた。 ―――――ここは、釜爺のところへと抜けられる裏階段の途中である。 営業が終わりシンと静まりかえる中、千尋とハクはその裏階段に腰かけながら会話を続けていた。 気温が低いせいもあってか、空気はいつも以上に澄んでいて。 そのことが、より一層夜空の月を鮮明に輝かせる。 ハクは、そんな月明りに照らされた千尋の顔を見つめて。 対する千尋も、ハクに笑いかえしてみせる。 そんな千尋の微笑みを見ながら、ハクはどうしても脳裏から消すことの出来ない一つの疑問があった。 それが、ハクの心を重くする。 そう。 今回千尋がこの湯屋に来た時は、坊の泣き落としもあってか千尋は名前を奪われていない。 だから、きっと向こうの世界へもすんなりと帰ることが出来るだろう。 ハクは、そこまで考えて、ふと目を伏せてみせた。 そう、本当は。 千尋を、向こうの世界へ帰したくはない。 再び離れることなど、考えられないのだ。 いつ向こうの世界へ帰れるのかも分からない、契約に基づいてあてもなく働く自分。 それでもいつか千尋に会えるのならばと、それだけを信じて生きてきた。 しかし。 ハクはもう、知ってしまったのだ。 ずっと会いたいと願っていた少女が、こうして目の前に現れることで、こんなにも穏やかな気持ちになれる自分がいることに。 こんなにも、千尋の存在を必要としてしまっている自分がいることに。 すでに―――――――千尋から離れられなくなっている自分がいることに。 しかし。 千尋にだって、向こうの生活がある。 いつまでも、こちらの世界に留まることは出来ないのだろう。 そこまで考えて、ハクは伏せていた目をゆっくりと上げた。 小さく、息を吸って。 「千尋は……いつまでこっちの世界にいるんだ?」 言葉を、紡ぐ。 すると。 そんなハクの言葉に、千尋は以外にもパッと笑ってみせて。 そして、言った。 照れくさそうに。頬を微かに染めて。 「ずっと!」 ―――――――と。 * * * ずっと? そんな千尋から返ってきた以外な言葉に、ハクは驚いたような表情をみせた。 そんなハクを見て、千尋は言葉を続ける。 「湯屋に来る前にね、草原を過ぎた辺りで銭婆のおばあちゃんに会ったの。おばあちゃん、元気そうだった」 「銭婆?」 これまた千尋の口から出てきた以外な言葉に、今度こそハクは疑問を口にする。 すると千尋は「うん」と頷いて。 「あのね、銭婆のおばあちゃんに色々聞いたの。ハクが向こうの世界に帰るためにたくさん頑張ってること。毎日休みもなく働いてるってこと」 「千尋、それは……」 そんな千尋の言葉に、ハクは一瞬言葉に詰まる。 千尋はというと、しゃべりながら俯きだして。 確かにハクはこの5年間、休みもなく働いていた。 仕事量も、以前にくらべて格段を増えたのも事実だ。 しかし、正直ハクはそれを苦しいと思ったことは無い。 何故なら、その先には湯婆婆との契約を切り、向こうの世界に住む千尋の傍に行くことが出来るという代価があるのだから。 しかし、湯婆婆は以前ハクが契約のことで掛け合った時に「向こうの世界へ行きたければ私が納得するまで死ぬ気で奉公しな」としか言わなかったのも事実で。 これといって、働く期限は決まっていなかったのだ。 すると千尋は、俯いていたかと思うと、今度は空を見上げながら「うん」と一人呟いて。 ハクの方を向く。 「だからね、私もハクのお手伝いをする!ハクが向こうの世界に一日でも早く帰れるように」 そして、ニコリと笑う。 「しかし千尋には、向こうの生活のことも……」 そこまで言うと、千尋が話を途中で割るかの様に再び口を開いた。 「あのね、銭婆のおばあちゃんが、私がこっちにいる間は、向こうの世界のことは魔法で何としてくれるって」 だから、大丈夫! そう言うやいなや、千尋は立ち上がり服についてしまった砂埃を両手で掃った。 階段を2、3段上って。 「じゃあ、行くね。私部屋でリンさんとお話する約束してるの」 そして、パタパタと走り去ってしまう。 後に残るは、ハク一人。 赤い水干に身を包んだ千尋の背中を、ハクは無言で見送ったのだった。 |