いつか、不思議の世界で
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 「ハクのばかっ!!」


 油屋のはずれにある部屋の前。

 そこの廊下で、千尋は半泣きの状態でそう叫んでいた。 


 目の前に居るのは――――他の誰でもない油屋の帳場役。

 千尋を見ながら、驚きを隠せずに立っている。


 「ハクなんか……っハクなんか大っ嫌い!!」


 そう言って千尋は勢いよく踵を返しバタバタとその場を走り去った。


 あとに残るのは――――呆然とたたずむハクの姿。
 
 
 「千尋……」
 
 
 しばらくの空白の後、なんとか肺に空気を送り込みながらハクはそう呟いた。




 
 ――――ことの始まりは二時間ほど前。


 一日の営業が終わって、従業員が皆それぞれの部屋へ戻るころ。

 その中の一人であった千尋も、桶を湯殿に戻して今日の仕事を終えようとしていた。


 あれから。

 千尋が再び油屋で働き始めてから。


 時間が経つのは早いもので、すでに二週間が経とうとしていた。


 その間仕事の方も、どうにかリンに助けてもらいながら覚え始めて。

 従業員の人たちや、お姉さまたちともそれなりに仲良くなって。


 辛いことも沢山あったが、千尋はここでの自分の居場所をそれなりに見つけつつあった。

 
 確かに、働いている間もとの世界のことを想わなかったと言えば嘘になる。


 お父さん、お母さん。

 学校の友達。

  
 向こうの世界での、自分の居場所。

 それは、とても心地のいい場所で。

 
 この二週間、千尋は何度か晴れた日に薄っすらと空を見上げながら、向こうの世界のことを思い出していた。


 一週間ほど前。

 千尋は、ふとトンネルの前まで行ったことがあった。


 そこで、小さく息を吸いながらトンネルの奥を見つめる。 


 中は真っ暗で。

 千尋がこちらの世界へ来た時と同じように、ヒンヤリとした空気が肌に触れた。


 ここを抜ければ、もとの世界へ帰れる。

 皆に会える。


 働くことのない、甘えた自分に戻れる居心地のいい自分の居場所。


 しかし。


 そこまで考えても、分かっていても。

 千尋は不思議と「帰りたい」とは思わなかった。


 それどころか、この不思議の世界に居ることが、今の自分にとっては必要なことだと。

 今の自分にとって、一番幸せなのだと思えて。


 そう。


 辛いことがたくさんあっても、この不思議の世界に居たいと思えるのは。 

 こんなに幸せな気持ちになれるのは。


 それは、きっと。

 きっと――――ハクが居るから。 


 千尋は小さく息を吸いながら、青く透き通る空を見上げた。

 そうして幸せそうにトンネルに向かって小さく微笑んでから、クルリと踵を返して歩き出す。


 油屋へと。

 大切な人の待つ、今の自分の居場所へと向かって――――




 ―――……ひろ

 
 と、千尋がそんな一週間前のことを思い出しながら、半分上の空で桶を片手に走っていると。

 ふと後ろから誰かに呼びかけられた様な気がして、千尋はハッと我にかえった。


 「千尋!危ない!!」 

 「え?」
 

 今まで考えごとをしていた、半分上の空の頭の中。

 もちろん、自分の周りの状況など瞬時に察知することなど出来ずに。 


 「えぇっ?!」


 当然千尋は、自分の走りつく廊下の先に先ほど誰かがこぼした大きな水溜りがあることに、直前に来るまで全く気がつかなかったのだった。


 結果。


 「千尋っ!!」


 「きゃあああっっ!!」


 ゴンッ!!!


 背後から聞こえる、ハクの声と。

 自分の頭を打っただろう大きな音を最後に、千尋の意識はそこでプッツリと途切れてしまったのだった。