いつか、不思議の世界で
−6−






 「ハク……」


 まさかハクが追いかけてきてくれるなんて思ってもいなかった千尋は、驚いた顔をしたままその場に立ち尽くす。


 「……千尋」


 そんな千尋の様子を見ながら、ハクはゆっくりと足を踏み出した。

 千尋へと、向かって。


 しかし、そんなハクの動きに気がついたのか、千尋は微かに後ろの方へと下がって。

 そのままハクから視線をそらすように、顔を静かに伏せた。


 ハクは。

 ハクは、どうして私を追いかけてきてくれたのだろう。


 そんな考えが、頭の中を駆け巡る。


 『向こうの世界へ帰ったほうがいい』


 そう言ったのはハクなのに。

 他の誰でもない、ハク自身なのに。


 それなのに。

 それなのに、どうして―――――――――


 千尋は伏せた顔をあげることなく、頭の中で何度も先ほどのハクの言葉を思い起こしていた。


 ふと、目線の先に自分の足元が見える。

 そこにはもう、川の水が迫っていて。


 千尋は、握っている拳に微かに力を込めた。


 今、この足を踏み出せば川を渡れる。

 水かさも、それほどではない。


 それに、ハクは湯婆婆とまだ契約をしている状態で。

 この川の先には来れないはず。


 と、いうことは。

 私が、この川を渡れば。


 この川の先まで行ってしまえば、もうハクとは―――――――


 千尋は泣きたいような苦しいような思いのまま、じっと川の水を見据えていた。 


 さっき。

 さっきハクが私に言った言葉。


 あれがハクの本心なら、私はこの川を渡った方がいいはず。


 私にとっても。

 ハクに………とっても。


 でも。

 それなのに。


 千尋は、無意識に自分の目に再び涙が溢れてくるのを感じた。

 ポタリ、と音をたてて地面に涙が落ちる。


 「千尋……」


 微かに驚いた、ハクの声が聞こえる。

 そんなハクの声に、千尋は無言で答えることしか出来なくて。


 そう。

 二人にとっては、この川を渡った方がいいはずなのに。


 それなのに。

  
 足が。

 足が、動かない。


 身体が――――――――これ以上前に進まない。 


 「………だよ…」
  

 そんなごちゃごちゃの考えをどうにか押し込めて、千尋はポツリと声を漏らした。 

 泣いているせいか声が掠れてしまい、最後まで上手く発音できなくて。


 しかし、ハクはそんな千尋の小さな呟きを聞き逃さずに。

 そのまま穏やかな目で、無言のまま千尋の言葉を待つ。


 すぐにでも千尋の傍へと駆け出したい気持ちをこらえて。


 すると、そんな無言のハクに導かれるかの様に、千尋が微かに顔を上げた。

 途端。千尋はポロポロと涙を流し始めて。


 「やだ……ハクと離れるなんて……やだよぉ」


 千尋は泣きながらもそう言葉にしつつ、ゆっくりと視線を伸ばした。

 そこには、ハクが居て。


 「千尋……っ」


 そんな千尋の言葉に、ハクは驚きを隠せずに。

 その瞬間、ハクは無意識に自分の足が千尋へと向かって踏み出していることに気がついた。


 自分が千尋へと向けていった言葉。


 千尋の為になるのなら。

 今の千尋にとって、一番いい方法なら。

  
 そう考えて、言った言葉だったはずなのに。

 「離したくない」といった、自分の中に渦巻く強欲な感情を押し殺しながら、言った言葉だったはずなのに。


 それなのに。


 実際は、こんなにも千尋を悲しませ、苦しませ。

 こんなにも千尋を泣かせてしまった。


 自分の考えの甘さから。


 こんなにも、千尋を――――――――


 と、その時。


 千尋まであと少しの距離まで来たところで。


 千尋が、半分泣きながら口を開いた。

 
 ハクに向かって。

 真っ直ぐと。


 「せっかく会えたのに……、ずっと……ずっとハクの傍にいたいのに……っ!」

 
 ―――――――――!!


 瞬間。

 ハクは、千尋を抱きしめていた。


 強く。

 息が止まるほどに、強く。


 「ハク……っ」


 微かに千尋は驚いた声をあげたが、それも束の間で。

 千尋は再び涙が出てきたのか、抱きしめられたまま静かに顔を伏せた。


 「すまない……千尋」 
 

 そして、ポツリと呟く。

 千尋の耳元で、優しく。
 

 微かに、苦しそうに。


 「そなたの気持ちを……分かってやれなかった」


 そんなハクの言葉に、千尋はまだ涙が止まらないのか、白い水干に顔をうずめたまま無言で返して。

 しかし、抱きしめているハクの手を振り払うこともせず。


 黙ったまま。


 そんな千尋を抱きしめながら、ハクはそっと頬を寄せてみせた。


 ………温かい。


 千尋がここに居る、自分の傍に居る証拠。 

 自分と同じ場所で、同じ時間を生きている証拠。

 
 ハクは、自分の胸に温かいものが生まれてくるのを感じつつ、千尋を抱きしめる腕の力をそっと緩めた。


 するとそのことに気がついた千尋が、ゆっくりと顔を上げてみせて。

 そんな千尋を見て、ハクは穏やかに微笑んだ。


 そして、ハクは千尋の頬をぬらす涙を優しく拭う。

 微かに、千尋がくすぐったそうな表情を見せて。

     
 ハクはもう一度、千尋を優しく抱きしめた。


 「私も………」


 そして、ハクは静かに口を開く。

 
 風の音が、やけに耳に響いて。

 それを、振り切るように。


 「私も、千尋………そなたを…離したくはない」


 途端。風が川の上をざわめき通って。

 木々の揺れる音が、あたり一面に響く。


 穏やかに。

 優しく。 


 そんな音を聞きながら、千尋はゆっくりとハクの方へと顔を向けて。


 「本当……?」


 ポツリと呟く。


 そんな千尋の言葉に、ハクはゆっくりと頷いて。


 次の瞬間。

 
 風と木々の穏やかなざわめきの中。

 お互いの存在を確かめるかの様に。


 ハクと千尋は、唇を重ねていた。  


 「ハク……」
 
 
 そして、千尋は微笑む。


 嬉しそうに。

 本当に、幸せそうに。


 ハクへ向けて、ハクにだけ見せる、優しい笑顔で。


 そんな千尋の笑顔を見ながら、ハクは再び千尋を抱きしめたのだった。











 ―――――――――その後。


 油屋には、相変わらず元気に働く千尋の姿があって。

 そんな千尋の姿を見守りながら、ハクは今日も帳場を仕切り。


 そんな風に、毎日が慌しく過ぎていった。


 「千、廊下を走るな」


 途中、桶を持ったままパタパタと走る千尋を見つけて、ハクはそう口にする。


 今はあくまでも仕事中。

 千尋といえども、注意をするのはあたりまえで。


 そんなハクの言葉に、千尋は「はいっ」と答えて、走る足を遅めて歩き出した。


 しばらく歩いてから。


 ふと千尋が振り返って。 

 ニコリと微笑んだ。


 ハクに、向かって。


 「せーんっ!何してんだ、一番客がきちまうぞ!!」 


 と、その時。

 遠くからリンの声が響き。


 その声に「はーいっ」と大きな声で答えてから、千尋は再びパタパタと走り去ってしまった。 

 今ハクが注意したことを、千尋はすっかり忘れてしまった様で。


 そんな千尋の背中を見送りながら、ハクは目を細めてみせた。

 優しく、穏やかに。


 『自分が元の世界へ帰れるまでの、奉公の期間』


 それが、いつなのかなんて分からない。

 検討もつかない。


 しかし。
 

 千尋と一緒に。 

 
 二人で、同じ時を過ごしながら乗り越えていけばいいのだから。


 ハクは、すでに千尋の姿の無い廊下の先を見ながら、そんなことを考えていた。


 と、遠くの方で従業員たちの声が聞こえる。

 どうやら、一番客が来たらしい。


 ハクはいつもの様に、客を迎えるために玄関の方へと向かって歩き出したのだった。