いつか、不思議の世界で
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 この道をもう少し行けば、川のところに出られる。


 営業も終わり、神様たちも帰った時間。

 この時間なら、きっともう川の水はそんなに多くはないはず。


 千尋は、そんなことを考えながら大通りを走っていた。


 涙で前はよく見えなくて。

 転んだときに打ったであろう頭も重い感じがする。


 しまいには、右の足首も捻挫していたらしく。

 走るたびに、ズキズキと痛む。
 

 しかしそんな痛みよりも、先ほどのハクの言葉が千尋の胸に痛く響いて。

 千尋は、視線を微かに伏せてみせた。


 『ハクが居るから、私はがんばれるの』


 ずっと、そう思ってきた。

 そう思いながら、この油屋で生活してきた。


 でも。


 千尋は自分の考えたことを、もう一度脳裏に蘇らせた。


 ……ハクが居るから、私はがんばれる?


 ――――――――ううん、違う。


 そうじゃなくて。


 ハクが居るから、じゃなくて。

 ハクが居なくちゃ、だめなんだ。


 ハクと離れたくないのは、自分の方。

 離れられないのは、自分の方。


 ハクが居ない世界なんて、考えられない。 


 でも。


 『……そなたはやはり、戻った方がいい。もとの……ご両親のいる世界へ』


 ハクが、千尋へ向けて言った言葉。


 それは。

 それは、ハクは私と離れても平気だってこと――――――――


 と、その時。


 千尋は、捻挫した右足を庇いながら走っていたせいか上手くバランスが取れなくて、足をもつらせてしまった。


 結果。


 「きゃっ?!!」


 ズデンッッ


 千尋は、派手な音をたてながらその場に思いっきり転んでしまったのだった。


 うぅ〜〜……


 地面に顔を伏せながら、唸り声を上げてみせる。

 
 痛みをこらえつつ、ゆっくりと目を開けると、そこにポタリと水滴が落ちて。

 それは、無意識に流れた自分の涙。


 地面にゆっくりと滲んでいく。
 

 そんな地面の様子を見ながら、千尋は痛みとぐちゃぐちゃの感情とのせいで、ますます涙が出てきて。

 顔を伏せながらも、ゆっくりと身体を起こし始めた。


 「……痛い……よぉ……」 


 転んで擦りむいた肘や膝も痛いし。

 捻挫した足も痛い。


 そして――――――――心も痛くて。


 千尋は自分でもどこが痛いのか分からなくなり、無意識にそう言葉に呟いた。


 そんな時、千尋はふと頬に風を感じた。

 顔を上げると、もう川の手前まで来ていて。


 水かさも少なくなっていて、渡れないほどの量ではない。


 「…………」


 千尋はゆっくりと起き上がって、川へと近ずいた。


 一歩。

 一歩。


 やがて、川の水が足に触れるか触れないかの所まで来て、千尋はその動きを一旦止めた。


 しばらくの沈黙のあと。

 ゆっくりと震える息を吸って。


 千尋が足を踏み出そうと、拳を握り締めようとした時。


 「千尋!!」


 背後から自分を呼ぶ声が聞こえて、千尋はその場に固まったように瞬時に足を止めたのだった。


 ゆっくりと、それでいて静かに振り返る。

 微かに、手は震えて。


 街灯も何もない、夜の闇の中。

 薄っすらと、千尋の目に白い水干が映える。


 「ハク……」

  
 千尋はまだ半分泣いているだろう声で、小さくその相手の名を口にしたのだった。