いつか、不思議の世界で
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 『ハクなんか大っ嫌い!!』


 ハクは、そう言った時の千尋の顔が脳裏に焼きついて離れなかった。

 今まで見たことも無いほどの、千尋の悲しそうな顔。


 ――――――――もとの世界へ帰った方がいい。


 ハクは先ほど自分が言った言葉を思い起こしつつ、震える拳を握り締めた。

 ゆっくりと肺に空気を送り込む。 


 ハク自身も、この言葉だけは口が裂けてでも言いたくなかったのだ。


 自分の中で、渦巻く感情。

 欲深な、竜神の血。   

 
 千尋が、自分のもとから離れることなど考えられない。

 離れることなど――――――――許さない。


 ハクは、日に日に自分の中での千尋への想いが大きくなっていくことに気がついていた。 


 千尋が居なくなったら、自分はどうなるのだろう。

 千尋が、自分のもとから離れていったら。


 しかし。

 ハクは、何度か見ていたのだ。


 千尋が時々淋しそうに、空を見上げていることを。 

 両親が居ないとわかっているにも関わらず、豚舎を眺めていることを。


 そして――――――― 一週間前に千尋がトンネルの前へと行ったことを。


 ハクは、今まで千尋が寝ていた布団へと近ずいた。

 そっと手を伸ばすと、まだ微かに温もりがあって。


 ハクは、静かに目を細めてみせた。


 千尋はまだ、年のころ15で。 


 両親と離れるにも早く。

 仕事をするにもきついだろう。
 

 それにも関わらず千尋はこの油屋に、ハクの傍にいてくれる。


 …………何故?


 そう考えたときに、ハクの胸中には一つの不安が浮かんできたのだ。


 そう。


 自分の身体の中に渦巻く、独占欲という名の強欲な感情。

 それがハクの中で、千尋といる時間を重ねた分だけ確実に大きくなっていく。


 しかし、その感情が千尋を引き止めているのではないだろうか、と。

 千尋は、本当は「帰りたい」と思い始めているのではないのだろうか、と。

 
 そう考えて、ハクは自分の中の千尋を離したくないといった強欲な感情を押し殺しながら、先ほどの言葉を千尋へと向けたのだった。


 しかし、その言葉を聞いた時の千尋の目は、今まで見たことも無いくらいに悲しみに満ちていて。

 本当に、悲しそうに。
 

 そして、そんな千尋の表情を見た時、ハクは正直戸惑ったのだった。


 自分が千尋へと向けた言葉。


 千尋のことを思い。

 千尋の為になるのならば、と思い。


 離したくないといった感情を押し殺して、どうにか発した言葉。


 しかし。


 しかし、本当は千尋にとっては。


 窓の外を見る。

 風は強そうだが、雲は無くて。


 ハクは、ゆっくりと視線を扉の方へと向けた。


 千尋は油屋に来てからというもの、いつも幸せそうで。


 なぜ千尋は、毎日笑っていられたのだろう。


 仕事だって辛いはず。

 毎日が質素な暮らしで、決して満足のいく毎日とは言えないのに。


 それでも、微笑んで。

 自分を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってくる。


 本当に、嬉しそうに。


 本当に―――――――――幸せそうに。


 「千尋……」
 

 次の瞬間。


 ハクは、自分の部屋を飛び出していた。


 愛しい少女の、行く先を追って。