想いと呪文と、代償と
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 氷の悪魔が姿を現したことで、部屋の気温は徐々に下がり始めていた。


 微かにだが風鳴りの音が聞こえ、吐く息も白い。

 キンと張り詰めた空気が、部屋中に立ち込める。


 その空気を打ち破るかのように、氷の悪魔である実体を持たない「白いもや」がゆっくりと揺らめく。


 「……ハウエル、私はお前が憎い。私を長い間封じ込めて、ここまで弱らせたのはお前だ」


 それは、ゆっくりとだが力強い声音で。

 言葉を発するたびに、部屋に僅かな振動が走る。


 対するハウルは。 

 悠長にも机によしかかる形で片手を突きつつ、氷の悪魔を真っ直ぐと見据えていた。

 そして、先ほどと同様、冷たい笑みを浮かべる。 


 「………心外だね。僕はきみの日頃の行いが余りに悪かったから、前の主人から封印するよう頼まれただけさ。自業自得じゃないの?」


 その言葉に、一瞬目の前の「白いもや」が震えた。

 お互い、微動だにせず睨み合う。


 と、そこへ。


 くしゅんっ。 


 小さなくしゃみが、緊迫した空気を一気に崩した。

 見ると、マイケルが鼻をぐすぐす言わせながら、ソフィーにもう一枚毛布をかけてやっている。


 「あ……っす、すみません!」


 ハウルの視線を感じたのか、ばつが悪そうにマイケルはあわてて謝罪する。
 

 きっと室内の気温は、そろそろ氷点下に達するころだろう。くしゃみくらいして当然だ。

 するとマイケルの行動に便乗してか、今度はカルシファーまでもがぼやき始めた。


 「これ以上気温が下がったら、おいらだって厳しいよ!おいら消えるのはごめんだからね」


 そう言ったかと思うと、カルシファーは暖炉の奥へと姿を隠してしまった。

 手元に置いてあった薪を、ちゃっかりと何本か持っていった様子で。 


 「ちょっ、ちょっと待ってよ、カルシファー!」


 たまらずマイケルが呼びかける。

 しかし、暖炉の奥から反応は返ってこなかった。


 言い方が悪いかもしれないが、カルシファーは頼みの綱である唯一の保温手段である。

 それが奥へ消えたとなると、ますます部屋の気温は下がり始める。


 ―――――――――時間がない。


 ハウルは表情には出さないものの、悠長な事態ではないことに気がついていた。


 この急激な気温の低下には、生身の身体であるハウルたちには厳しいものがある。

 しかし、逆に氷の悪魔自身も、ソフィーの身体から切り離された今、体力的にも魔力的にも厳しい状況にあるだろう。

 それは間違いなかった。


 するとハウルの読みが当たったのか、先に動き出したのは氷の悪魔だった。

 お互いの均衡を破るかのように、揺らめき冷気を放ち始める。


 「ハウエル、お前も私の力の源になってもらう。取り込ませてもらうよ」


 すると、以外にもその言葉を聞いた途端、ハウルはクックッと小さく笑い出した。

 対する氷の悪魔は、無言のままハウルの様子を見ている。


 「………取り込む?僕と勝負しようってのかい?」


 やがて。

 プツリとハウルの笑いが途切れたかと思うと、表情が一転した。

 不適ともいえるほどの鋭い視線を、黒の前髪から覗かせる。


 「……あんた、誰に向かって言ってるのさ」


 右手を――――――――悪魔に向かって真っ直ぐと伸ばす。

 青の双眸が、冷たく白いもやを写して。


 「この僕に本気で勝てるとでも思っていたわけ?」


 瞬間。

 ハウルが右手を僅かに動かしたと思うと、もの凄い光と音が部屋中に響き渡った。


 「うわっ?!」


 ハウルの背後に位置していたマイケルは、思わず小さく声をあげる。

 そして、反射的にソフィーを守ろうと、身体の上にかぶさり固く目を閉じた。


 「…………っ………あれ?」


 しかし。

 感じるのは音と光だけで、いつまでたっても衝撃などの類はこなかった。

 きっと、ハウルが魔法で守ってくれているのだろう。

 そのことに安堵の溜息を吐きつつ、状況を確かめようとマイケルはゆっくりと目を開けた。


 そしてそのまま視線を伸ばす。


 「あ………!」


 見ると、さきほどのハウルの魔法がきいたのだろう、白いもやは苦しむように形を歪め、呻いていた。

 対するハウルはというと、悪魔が対抗した痕だろうか。左の頬が切れていた。


 赤い血が、線を書くようにハウルの左頬ににじむ。

 それを無造作に拭いながら、ハウルは白いもやへと近づいた。


 一歩。

 一歩。


 それは、全くといっていいほど不安を感じさせない足取りで。

 もう少しで触れるといった距離まで近づいた、その時。


 ぐおおおおおおぉぉぉぉぉぉ


 氷の悪魔が顔を歪めたまま、地が揺れるほどの低く度量のある唸り声を上げた。

 と同時に、突然ハウルの方へと身体を伸ばし襲い掛かる。


 「―――――――ハウルさんっ!!!」


 それは、誰が見ても不意打ちと言っていいほどの素早さで。

 マイケルは、思わず身を乗り出してハウルの名を叫んでいた。

 
 しかし。

 マイケルが叫んだ時には、すでにハウルは頭上から迫りかかっている白いもやを、右の手の平で制していた。

 まるで、悪魔の取る行動が分かっていたかのように。


 ハウルの右手と悪魔との間で、バチバチと何かが弾け飛ぶ音がする。

  
 「残念だけど、君の負けさ。ソフィーから奪った魔力や体力、その他もろもろ返してもらうよ」


 ハウルの指先が、白いもやに向かって小さく何かを描き始めた。

 指先は、光を放ち。逆に悪魔からは、光が消える。


 すると、悪魔が最後の力を振り絞っているのだろうか、ハウルの右手がピキピキと音を立てて徐々に凍り始めた。

 しかしハウルは、余裕の表情さえ浮かべていて。


 「それに勝負する前から、君の負けは決まっていたのさ」


 その言葉に、背後で見ているだろうマイケルが、息を呑んでいるのがはっきりと分かった。

 青色の目を揺るがすことなく、氷の悪魔へと向けて。


 「何故なら、君はソフィーを傷つけた。……僕を本気で怒らせたからね」


 瞬間。

 パンっと何かが弾け飛ぶような乾燥した音が響いたかと思うと、もの凄い風が部屋の中を一瞬吹き抜けた。


 「……………!」


 マイケルが次に目を開けたときには、もうそこに悪魔の姿は無くて。

 代わりに、どこからか一枚の紙がヒラヒラと舞い落ちた。


 「ま、すっかり消してしまうのはかわいそうだからね」


 ハウルはそう言いながら、凍りかけていた右手を2,3度左右に振ってみせた。

 すると、音をたてながら氷は一瞬にして解ける。

 同時に、部屋の気温は常温に戻り始めた。


 そんな様子の変化を感じ取ったのか、カルシファーが暖炉の奥から顔を覗かせる。


 「もう終わったのかい?」


 全然悪びれなく問いかけるカルシファーに、マイケルは苦笑いを向けつつ落ちてきた紙を拾い上げた。 

 それは八角形に折られており、真ん中に何やら呪文が書かれている。

 マイケルは不思議そうに、ハウルと紙を交互に見比べて。


 「ハウルさん、これ………」

 
 どこか実感の無い声で、そう尋ねた。

 するとハウルはソフィーに近づきながら笑みを浮かべつつ答える。


 「前よりも、もっと強力な封印だからね。今度はソフィーにだって簡単には解けないさ」  


 そう言いながら、ハウルは今だ眠ったままのソフィーの髪を優しく撫ででやる。


 見るとソフィーの頬は、徐々に赤みを取り戻していた。

 そのことにハウルは小さく安堵の溜息をついたのだった。 







 次の日。


 「おーーーい!」


 広い部屋に、カルシファーの声が響く。

 しかし、誰からも返事はなく。


 そう。
 
 昨日の一件で、ハウルもソフィーもマイケルまでもが、すっかり風邪を引いて寝込んでしまっていたのだ。

  
 「………しばらく寒い中いたからなぁ。うっかりしてたよ」 


 二階では、遠くでカルシファーが騒いでるのを感じつつ、ハウルがベットの中でげんなりと呟いていた。

 魔法でティッシュを何枚か出現させ、鼻をかむ。

 
 「うーーー……、苦しい」


 しかし。そう言ったところで、みんな風邪をひいているため心配してくれる人はいない。

 ハウルは理不尽を感じつつ、ぶつぶつと文句を言ってみせた。


 「もうだめだ……、僕は死ぬ」


 そんなハウルの隣には、同じく熱を出したソフィーが寝ていて。

 ハウルの投げやりな言葉に、「はいはい」とあいづちを打っていた。 


 しばらくして。

 誰もかまってくれないことに諦めがついたのか、ハウルの規則正しい寝息が聞こえてきた。


 ソフィーはそのことを確認してから、そっとハウルに近づいた。

 頬を、ハウルの肩もとにすり寄せる。


 後にカルシファーから聞いた、今回の一件。


 苦しかったし、寒かった。呪文なんてもうこりごりって思ったけれど。

 ハウルの想いを、痛いくらい感じることも出来た。


 「風邪」という代償だけは残ってしまったけれど。


 不謹慎だけど――――――――ちょっとだけ嬉しかったかな。


 「………ありがとう、ハウル」


 ソフィーはそう呟き、ハウルを起こさない様に頬に軽くキスをした。




 窓の外には、眩しいほどの陽の光が差していて。

 雲ひとつない青空が広がっていた。