時の呪文 −1− |
もし、願い事が叶うのならば。 僕が望むことは一つだけ。 もし、僕の手に莫大な魔力があったのならば。 僕の使いたい魔法は一つだけ。 もし、可能性があるのならば。 僕が取る行動は一つだけ。 もし、時間を取り戻すことが出来たならば。 僕の行きたい時間は―――――――― 一つだけ。 雲ひとつない青空に、眩しく照りつける太陽。 静かに吹き抜ける穏やかな風とは裏腹に、今日も街中は活気づいていた。 そこの一角にある、レンガ作りの家。 以前は帽子屋だったのだが、今は花屋として営業しているその店の中では、一人の女性が色とりどりの花で花輪を作っている最中だった。 透き通るような肩までの銀髪に、茶の双眸。 ソフィーである。 「ふぅ……」 ソフィーは、ちょうどキリのいい所で一つ溜息をついた。 花輪を作る手を一旦止めて、背もたれに軽くよしかかる。 そして、部屋の中をゆっくりと見渡した。 「………なんだか、今でも不思議な気分ね」 そして、どこか実感のない声でそう呟いてみせた。 ふと、外から汽車の走る音が聞こえる。 と同時に、目の前の微かに開いた窓から、石炭汽車の黒鉛が入ってきた。 そのことに、ソフィーは一度咳払いをしてから窓を閉める。 そう。 ここは、まぎれもなくソフィーの生まれた家である。 その家の、今ではソフィーの部屋になっている、以前は帽子を作っていた小さな空間。 見慣れた壁紙に、見慣れた家具。 自分にとって、何も変わらない場所。 不思議な気分になることなんて、なにもない場所のはずなのに。 しかし。一つだけ変わったところがあるのだ。 その唯一の変化が、ソフィーを「不思議」な気持ちにさせる。 それは。 「ソフィー!ソフィー、どこ?」 ふと、扉の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえた。 その声に、思わずソフィーは微笑む。 耳に聞こえてくるのは、母親のファニーの声でもなくて。 帽子屋で雇っていた従業員の声でもない。 この家での、新しい「家族」からの呼び声。 呼ばれただけで、微かにソフィーの気持ちを高ぶらせる声。 「どうしたの、ハウル?」 大好きな人からの、自分を呼ぶ声。 「ソフィー、僕の上着をしらないかい?」 ソフィーが居間に出ると、ハウルの第一声はそれだった。 その質問に、ソフィーは「ああ」と頷いてみせる。 それから、部屋の中をぐるりと見渡してみた。 見ると、マルクルは暖炉の所で魔法の書に読みふけっており。 ヒンといえば、カルシファーと睨み合い。 以前は「荒地の魔女」と恐れられたおばあちゃんは、まだ寝室で寝ているのだろう。 残るハウルはといえば、上着をしばらく探したのだろうか少々不機嫌な顔つきでこちらを見ていた。 そんなハウルの様子に、ソフィーは思わず微笑む。 住み慣れたこの家で、新しい家族と新しい生活。 それが、ソフィーを不思議な、それでいて嬉しいような気持ちにさせるのだ。 そう。 この部屋は動く城の内部であり、以前ハウルを助けるためにソフィーが壊してしまった部屋である。 しかし、事の一件が終わりを告げてから、ハウルが何もかも元通りに直してくれたのだ。 また新しい家を探せばいいのに、ハウルはわざわざ自分の魔法を駆使してでもこの家を直すことにこだわって。 こだわって、頑張って。 結果、ここまで元通りになったのである。 それもこれも、みんな――――――――ソフィーのため。 ソフィーには、それが分かっていた。 胸の奥が、熱くなる。 ――――――あぁ。 いま、幸せなんだ。私。 ふと。 まだハウルと出会う前に、レティーに言われた言葉が脳裏によみがえる。 『本当にこのままでいいの?』 あの頃。 ただ目的もなく、帽子を作り続けていたあの頃。 別にやりたいこともなかった。 毎日がなんとなく過ぎていくのを感じていた。 楽しいこともなくて。 生きがいも無くて。 「幸せ」なんて思ったことも無かったのに。 それなのに、今は痛いくらいの幸せを感じる。 それは、きっと。 新しい家族との生活と。 誰よりも大切な―――――――ハウルの存在。 「ソフィー?」 と、その時。 ハウルが痺れを切らせたかのようにソフィーに話しかけてきた。 そんなハウルの声に、ソフィーは一気に現実に引き戻される。 みると、突然黙りこんでしまったソフィーを心配したのか、ハウルが顔を覗き込んできて。 近づく、顔。 髪に、ハウルの息が微かにかかる。 「えっ?…あ!上着、上着だったわよね」 思わずハウルから逃れるように、奥の棚へと向かう。 その行動に、ハウルは不思議そうな視線をソフィーに向けてきた。 だって。 だってだって。 思わず頬を、赤らめる。 自慢じゃないが、ソフィーは今までまともに男の人と話をしたことがない。 それなのに、突然ハウル級の美男子が一緒に住むことになって、その上自分のことを想ってくれているのだ。 それはソフィーにとっては本当に一大事なことで。 速まる鼓動をどうにか落ち着かせようと、ソフィーはハウルに見えないように深呼吸を何度かする。 そう。私にとったら一大事なのよ。 ソフィーは真っ赤になった顔のまま、棚から取り出した上着を固く握り締めた。 そして、うんうんと一人で頷いてみせる。 私にとっては、ハウルと見つめあったり抱き合ったりするだけでも一大事。 ハウルにとっては余裕かもしれないキスなんて、私にとったら大事。 その先。 その先なんて。 …………命がけ? ぜっ絶対ムリ〜〜〜〜〜っ!!! 未知の世界である「その先のこと」を想像出来ずに、ソフィーがハウルの上着に顔を埋めてもがいていると。 「……ソ、ソフィー?」 いい加減、本気で心配したのだろうか、ハウルがソフィーに不思議そうな声音でそう話しかけてきた。 「あ………」 そんなハウルからの呼びかけに、真っ赤な顔をしたままソフィーが苦笑い気味に上着から顔をあげたときには。 ハウルの上着は、しわだらけになっていたのだった。 |