時の呪文
−2−






 とりあえずソフィーは一通り気持ちが落ち着いてきたのか、ハウルに上着を手渡した。

 ハウルはそれを受け取ると、上着の表面を一度軽くなでる。

 すると一瞬にしてしわが無くなった。


 「……………すごい」


 その光景を見て、ソフィーは聞こえないくらいの声量でポツリと呟いた。


 いつものことながら、こういうのを目の前で見ると、正直「私が必死になって家事をする必要はあるのか」と本気で思ってしまう。


 しかし。

 それでもソフィーは、家事をやりたかったのだ。

 たとえ、仮にハウルが魔法でやってくれると言ったとしても。
 

 何故かといわれても、理由は分からない。

 それでも、やりたいのだ。
 

 理屈じゃない。

 そして理屈じゃないから、ソフィーにも分からないのだ。


 もちろん体力的には疲れるし、楽なことばかりではない。

 はっきり言ってハウルやマルクル、荒地の魔女ことおばあちゃんは、家を散らかす天才だ。

 そのたびに、正直うんざりする自分もいる。
 

 でも家事をしていると、何故かソフィーは温かい気持ちになるのだ。   

  
 これが家族のために、そして大好きな人のために何かをする、ということなのだろうか。


 ソフィーはそんなことを考えながら、ハウルの方をチラリと見た。

 すると、ハウルはソフィーの視線に敏感に気づいて。

 優しく微笑み返してくれる。


 その瞬間、ソフィーは自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。
 

 どきん。

 どきん。


 一緒に暮らし始めて早一ヶ月。


 未だにハウルに対して、こんなに緊張する自分がいて。

 でも。

 逆にハウルは、自分にとって一番安心の出来るひと。


 ソフィーは、そんなハウルに微笑み返して。

 お互い、まさに目と目で通じ合おうとしたその時。


 「ソフィー、一緒に夕飯の買い物に行こうよ!」


 マルクルが紺色のハットフードを手に、嬉しそうにソフィーに抱きついてきたのだった。











 「本当はハウルもソフィーと出かけようと思ってたんだろ?」


 ソフィーとマルクルが出かけてから早1時間。


 カルシファーが、椅子に座りながら暖炉に足をかけていたハウルに話しかけた。

 その言葉に、ハウルは軽く肩をすくめてから、チラリと上着の方を見る。


 確かに、ハウルはソフィーとどこかに出かけようと思っていたのだ。

 そこをマルクルに、絶妙なタイミングで先を越されてしまったというわけだ。


 しかしハウルは「まぁいいさ」と言わんばかりに目を細めて見せた。

 そしてゆっくりと目を閉じて、口を開く。


 「……カルシファー、最近の気分はどうだい?」 


 するとカルシファーはまだ燃えていない部分を抱きしめようと、薪の上を移動しだした。

 途中落っこそうになるが、何とか耐えつつ答えを返す。


 「最高だね。誰かさんの心臓が無いと思うだけで身体が軽くて仕方ないよ」


 そして、見せびらかすように火の勢いを強くして嬉しそうに笑った。

 パチパチと、自然と音も大きくなって。


 そんなカルシファーの言葉に、ハウルは軽く笑って見せて。

 薄く、目をあけた。


 淡い青の双眸に映る、カルシファーの火の光。

 それは、あの頃と変わりなくゆらゆらと燃えていて。


 「……………」


 あの頃。

 まだ自分が「心」というものを失ったいた、あの頃。


 誰かに特別な感情を抱くことなんてなくて。

 自分以外、大切なものなんて何も無くて。


 ただ、毎日を自分の思うがままに生きてきた。


 しかし。

 そんな中、唯一心を持たない自分の中で、何か熱いものが込み上げてくる言葉があったのだ。

 たった一つの、記憶の片隅に残る一人の少女の名前。


 それが―――――――――「ソフィー」


 ハウルは、本当に無意識に自分の心臓の上に手を移動させていた。


 それは、規則正しく動いていて。

 ハウルは、ゆっくりと再び目を閉じた。


 大切なもの。

 守りたいもの。


 自分には、必要のないものだと思っていたのに。

 今では、こんなにも必要としている自分がいる。


 ………守ってみせる。


 何があっても。

 どんなことがあっても。


 自分の心を取り戻してくれた人を。

 自分を必要としてくれている、存在を。


 ようやく見つけた―――――――――守らなければいけない人を。



 と、その時。

 突然扉を叩く音が、部屋中に響いた。


 ハウルはその音に、一気に現実に引き戻されたかのように目を開ける。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。
 

 「黄色の扉からだよ。ソフィーたちが帰ってきたのかなぁ」


 そして、カルシファーがそう言いながら、興味深げに暖炉から少々顔を覗かせた。

 対するハウルは、しばらく扉の方を向いていたかと思うと、右の人差し指を一瞬横に動かして。 

  
 取っ手の色が、ひとりでに黄色に変わる。

 扉の上にある窓が、明るい陽の光を映して。


 しばらくの、沈黙が流れる。

 
 すると。

 その沈黙を破るかのように、取っ手がゆっくりと動き。

 扉が、開いた。   

 
 その、扉の先には。


 「………ハウルさん!」

 「ルーイ……?!」


 ルーイと呼ばれた一人の青年が、嬉しそうに立っていたのだった。