ARARA - 21-29

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雲景のあららARARA
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あららARARA Web劇場ー名前の検索



「侵入」とか「撤退」とかの言葉は、なんとも恐ろしい。国際間の領土問題の摩擦のようでもある。
新聞紙上で、国と国とのあつれきを読むたびに、SS流を思い出す。
国と国、個人と流派、スケールの大小の違いはあっても行為そのものは同じことだ。

侵害された側は、撤退を強く叫ばなければ、どんどん侵略されてしまう。
Webの検索領域は、雲景の領土そのものであるのだから、自分が守らなければ、誰が守って
くれるのだろう。雲景の生活とはまったく関係ないと思っていた侵略の言葉が、いまでは一番
身近にある。

トップページに 「忠告」 を載せたその日は、勉強会の講師としてご指導をいただいた
O家元先生の
ご尊父様のお別れ会があった。前代の家元先生である。
案内状をいただいたOホテルの会場には、溢れるばかりのいけばな人が参列していた。
勉強会でお世話になった他流の先生方や、雲景の流派の顔も見える。

毎日毎日、心が休まらない雲景にとって、そうした方と顔を会わせるだけでもホットした。
故人の長年の花友からエピソードを交えた心温まるスピーチがあった。
いけばな人って、いいな、と思った。
先代の家元先生は、ゴルフの早打ちが得意技だったそうだ。

生前は存じ上げないけれども早打ちの話を聴いて、微笑ましくなった。
思わず口元がほころんだ。
DNAは、紛れもなく受け継がれている。ゴルフの話ではない。
O家元先生のブログの更新は早い。
街の中から誰もが見過ごしてしまいそうなネタに着眼して、ブログの舞台に登場させる。
翌日は、がらりと違うネタを頁に見せるところなど、劇的効果もある。
切り替えの早さは、いけばなで築き上げた感性と、ご尊父様のDNAの遺産のお陰なのでしょう。

お別れ会の儀式の隣のホールには、お清め会場が設えてあった。
壁際に友人と座っていると、ホテルマンが気が利いていて、小皿にお料理を次々と運んでくれた。

片方の壁にそって、故人の歴史が写真物語風に飾ってあった。
花友とおそろいのベレー帽をかぶった写真があった。
ベレー帽には忘れられない思い出がある。
学生時代のことだった。

西洋美術史を教えてくださっていた坂崎坦教授が、「よい展覧会があるから行ってみなさい」
と薦められて、銀座のデパートに出かけた。
展覧会場には雲景と同行した二人の学友しかいなかった。
授業が終わってから出かけたのであるから、多分午後であったろう。
教授が薦めるくらいだから、上野の展覧会場のようにデパートはごったがえしているのかと想像して
いたが、入場者が三人だけなのは意外だった。

雲景の足は一枚の画の前で停まった。二人の友人は先に進んでいった。
キャンバスのほぼ中央には、道が縦に、大胆に描かれていた。

キャンバスの横幅一杯の下から力強く緩やかな丘を登っていく一本の道は、だんだん狭くなっていく。
狭くなった遠くの先が、途切れたように見える辺りは、下り勾配のようだ。
丘を下って一旦消えた道は緑の中から再び現れて、右手のなだらかな丘の連なりに沿って消え入り
そうな細い線になって続いている。
緑の丘には立ち木が一本も描かれていない。この単純構成と色彩感覚に惹きつけられた。


                                           続く(編集未完)
どる
づく