パソコンとの出会い


 33歳のときに、車の運転をしていて、なんとなく左眼が変だなぁと、思って、眼科に駆け込んだ。
数時間待って、数分検査して、3分くらいの医者との面談で、「網膜色素変性小です」
「将来は見えなくなりますよ」と、告知を受けました。
楽天家の「ぐー」は、メガネをかけたら見えるんでしょう! と、いい加減に、自分でその病名を調べるわけでもなく、日々を過ごしてた。
40歳になったときに、見えていた右眼は、0.03に悪かった左眼は、光を感じるだけになっちゃってた。
22年間、故郷を離れていたんだけど、こんなに見えなくなったら、交通量も少なくて慣れているところにと、故郷に帰ってきたのかな?
逃げてきたと言うほうが正しいのかもしれない。
でも、小さな町では、幼い頃の「ぐー」を知っている人も多く、年寄りからは同情の声や視線を感じ、たくさんいるはずの同年輩からは、ほとんど声をかけられなかった。
人に会いたくなくて、出歩きたくなくて、家にとぢこもる毎日が続いてて、トンネルと呼んでいた。
何のためにいきているんだろうか?
ただ、息をしているだけ・・・
そんな暗いトンネルの中の時間を2年近く過ごした。
そんなときに、2日間の歩行訓練の案内が電話だったか、手紙が来て読んでもらったのか?定かでないんだけど・・・
何気なく、ほんっとに、何気なくなんだけど、参加することにした。
そしたら、「ぐー」よりも年老いた全盲の「ぐー」と同じ眼疾の女性が、大きな声で話しをし、大きな声で明るく笑っていた。
「ぐー」よりもこの女性は、見えてないぞ!
年齢もだいぶ上だぞ!
しかも、女性だぞ!
同じ病気なのに・・・
偏見でも差別でもなく、そう思った。
そして、「このままでは、いかん!!」
まだまだ、見えてるぞ!
まだまだ、若いぞ!!
この2年間、何をやっていたんだろう?
治るわけではないんだから、それを受け止めて、前を見て自分のできることを! 何か!?
そう思ったときが、「ぐー」のトンネルの出口だったように思う。
半年後に、視聴覚福祉センターで、生活訓練を受けた。
内容は、白杖を使った歩行訓練。
点字の読み書き。
そして、日常生活動作訓練。
最初は、点字もなかなか書けないし、読むことは1万倍難しいし、白杖を家のそばで持つのがいやだった。
しばらくすると、胸を張って白杖を大きくふって、前に向かって歩いていた。
ただ、未だに点字は読むことができなくて・・(ペコリ)・
半年後に、盲学校に行って、「あんま・マッサージ・指圧、はり、灸」の勉強をすることに決めた。
そんなときに、同じ眼疾の方から、「パソコンをやってみない?」って、今考えれば天使の囁きがあった。
盲学校に入るまでの時間は、パソコン漬け!
わからないことばっかで、やっと解決したかと思えば、それ以上の問題が出てきちゃう。
わかったことは、どこかに書きとめることもできないから、毎日毎日反復練習して、体で覚えた。
わからないことは、パソコンを薦めてくれた方に、メールそして、時間がもったいないと電話作戦。
それでもわからないときは、パソコン抱えて走って(気持ち的には)。
盲学校に入るまでに、ホームページも立ち上がってて、パソコンの楽しさを知り、視覚障害者にとって、パソコンは必須アイテムだと身をもって知った。
だって、自分の知りたいことや見えないことで知りえないことを自分から探しにいけるんだもん。
こんな便利で楽しいものを同じ視覚障害者に伝えたいと、いろいろと教えてもらった師匠とパソボラを創めた。
視覚障害者PCネットワーク「猫の手」
盲学校で勉強しながら、いろんな人との出会いがあって、パソコンの楽しさを伝え、いろんな考え方も教わった。
盲学校を卒業する頃には、県のパソボラ要請事業にも登録して、パソコンを介してたくさんの人達との出会いを楽しんでる。
パソコンはまだまだ未熟だけど、楽しさだけは伝える自信がある。
盲学校を終えて、予定通り「あはき」の国家試験は合格したけど、このパソボラはずっと続けて生きたいので、見守っていてね。

自分のためのPCあれこれ