走水神社

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須賀神社例祭(夏季例祭)

須賀神社は須佐之男命(すさのおのみこと)が御祭神であり、災厄をもたらし、荒ぶる神を祀って疫病祓いの神とする御霊信仰の一つです。
京の夏祭・祇園祭で有名な八坂神社の例祭と同じであります。
須賀神社例祭(夏季例祭)は2年に一度、宮神輿が走水町内を巡行します。

夏祭1

夏祭1

 前夜祭の提灯行列にはじまり、祭礼当日の早朝、神輿に飾り付けが施されます。

夏祭1

夏祭1

 白装束の禰宜より受け渡される神輿は各町内を順に巡行します。

夏祭1

夏祭1

 神輿を船に乗せ海上渡御が行われます。

夏祭1

夏祭1

 走水は神輿の担ぎ方に特徴があります。


走水神社例大祭(秋季例大祭)

走水神社例大祭は毎年10月に氏子・町内役員が参列し神事が行われます。

例大祭1

例大祭1



日本武尊の東征『古事記』と『日本書紀』

 『日本書紀』での日本武尊の東征(東国征伐)は次のようになっています。
 景行天皇40年、日本武尊は熊襲を平定した後、東国の騒動を静めるため、自ら征伐を申し出る。伊勢神宮を拝し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かる。一行は駿河国(静岡県)に着いた時、土賊に欺かれ焼き殺されそうになるが、尊は迎え火をつけ難を免れた。そこを名付けて焼津(静岡県焼津市)という。
 さらに、相模国(神奈川県)に進まれて、船で上総国(千葉県南部)に向かう。海の中ほどまで来ると突然暴風に遭い、途方にくれた時、弟橘媛という妾(つま)が「これはきっと海神の仕業に違いありません。私の身を尊の身代わりに海に入らせてください」と申しあげたとたん海中に身を投じられた。暴風はたちどころに静まり、尊一行は無事上総に渡ることが出来た。
 時の人は、その海を名付けて馳水(走水)といった。
 その後、陸奥国(東北地方)を平定し、常陸国(茨城県)を経て甲斐国(山梨県)へ、そして武蔵国(東京都、埼玉県、横浜市、川崎市)、上野国(群馬県)を廻り、碓氷峠を越え、信濃国(長野県)に入る。その折、碓氷峠に登り東南を望まれ弟橘媛を忍び三度嘆いて「吾嬬(あづま)はや〔わが妻は、ああ〕」と言われた。そこでこの山より東の諸国を名付けて吾嬬国(あづまのくに)というのである。信濃国で邪神を倒し尾張国(愛知県)に入る。近江国(滋賀県)の伊吹山で病を得て、伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)で亡くなられた。時に御年三十。
 景行天皇は、尊を能褒野に葬りまつった。その時、尊は白鳥となって大和国(奈良県)を指して飛びたたれた。
 また、『古事記』では、もっぱら倭建命(やまとたけるのみこと・『古事記』ではこのように表記されている)の活躍を美しい叙事詩で綴られており、内容も『日本書紀』と異なっています。
 『古事記』と『日本書紀』を併せて記紀と略称します。「やまとたけるのみこと」は、『日本書紀』では日本武尊と表記され、『古事記』では「倭建命」と記されています。「おとたちばなひめ」は、『日本書紀』では「弟橘媛」と表記され、『古事記』では「弟橘比売命」と表記されています。記紀には、弟橘媛は穂積氏忍山宿禰(ほずみのうじのおしやまのすくね)の娘なりと書かれていますが、詳しくは分かっていません。
 では、なぜ、日本武尊は相模国の走水から上総国の房総半島に渡ったのでしょう。この件が述べられている記紀は、奈良時代の和銅5(712)年と養老4(720)年にそれぞれ編まれたもので、それ以前の地方行政の仕組みに大きく係わっていたと思います。当時の地方行政区画は五畿七道(ごきしちどう)といって近畿地方の五つの国のほか、東海道、東山道、北陸道(ほくろくどう)、山陰道、山陽道、南海道、西海道(さいかいどう)の七つの道に分かれていました。
 道(どう)は、現在の北海道のような「地方区画」であり、道(みち)でもあったのです。それぞれの国には国府(国の政庁)があって、それらを結ぶ官道(公の道)がしっかり整備されていました。東海道は、伊賀国から常陸国(概ね三重県から茨城県)までの太平洋沿岸地方です。相模国府(当時は海老名市)から上総国府(市原市)への道は、鎌倉、木古庭、衣笠、吉井を経て走水から海を渡るのが正規の道でした。
 日本武尊は、常陸国までは、この道に沿って進んでいます。また、それが、尊が切り拓いた道ということにしたのかもしれません。ところが、宝亀2(771)年,武蔵国が東山道から東海道に移されると、官道は三浦半島を通らなくなりました。<地域史家/今原邦彦>
                         


弟橘媛命の記念碑

記念碑は明治42年(1909)10月に勲一等昌子内親王(明治天皇第6皇女)御染筆により弟橘媛命の今際の御歌が刻まれ、碑背には発起人による撰文と氏名が刻まれています。
除幕式は明治43年6月5日に行われています。

 さねさしさがむのをぬにもゆるひの
 ほなかにたちてとひしきみはも
 勲一等昌子内親王書

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高ア正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻


これは、弟橘媛(弟橘比賣命)の今際(いまわ・最後)の御歌(天皇皇后などの作られた和歌)です。
媛の夫君(ふくん・夫) 日本武尊が東国遠征なさったのに伴われ、駿河では危険な野火の禍(わざわい)をのがれ、この走水の海をお渡りなさる時、激しい暴風にあい、御身を犠牲として尊の御命をお守りなさったその今際の御歌です。この御歌に溢(あふ)れる真情(真心)は、すべて夫君のお上に注ぎ、露ばかり(すこしも)他に及びません。その貞烈(妻として優れて正しく)忠誠(誠を尽くす心)は、まことに女性の手本とするだけでなく、男子の模範とすべきものです。東郷平八郎等、合議し同じ考えの者の賛成を得て、記念を後世まで永く残そうと御歌の御書を常宮昌子内親王殿下にお願い申し上げこの石碑を建てました。
明治42年(1909)10月
発起人
東郷平八郎 海軍軍令部長(明治38年12月19日〜明治42年11月30日)
軍事参議官(明治42年12月1日〜大正2年4月21日)
伊東祐亨 元横須賀鎮守府司令長官(明治25年12月12日〜明治26年5月19日)
井上良馨 前横須賀鎮守府司令長官(第10代明治33年5月20日〜明治38年12月19日。
以前に第5代明治26年5月20日〜明治28年2月15日)
乃木希典 学習院長(明治40年1月31日〜大正1年9月13日)
高崎正風 枢密顧問官(明治28年6月25日〜明治45年2月28日)
上村彦之丞 横須賀鎮守府司令長官(第11代明治38年12月20日〜明治42年11月30日)
藤井茂太 東京湾要塞司令官(明治42年1月14日〜明治43年11月30日)
※阪正臣 御歌所主事(揮毫者)、 旭海鶴永富萬治(彫刻)



機械水雷
水雷
 この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたものです。
 これは、艦船が接触したとき爆発する水中兵器で、日露戦争時にロシア軍が実際に使用したものです。当時、ロシア軍の機雷は世界屈指の性能を誇り、日本海軍に大きな損失を与えました。その中でも、この形式の機雷は、当時、最も新しく最も画期的なものといわれています。一方、日本海軍の機雷もこの戦いに大きな影響を与えています。
 上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていました。日露戦争時、蔚山(うるさん)沖海戦では、武士道精神にのっとり撃破したロシア艦の将兵の多くを救助します。また、日本海海戦では、冷静に敵艦隊の運動を見定め逃げるバルチック艦隊本隊の進路をさえぎるなど日本の大勝利に貢献しました。
 この機雷は、国家の平和を祈念するためここに置かれています。<地域史家/今原邦彦>