発病から1年くらいの闘病記

990年12月急性脳症発症後約9ヶ月入院。
熱はあって元気はなかったけど自分で歩け自分で何でもできた子が全介助の必要な
重度重複障害児になりました。つらいつらい14年前の出来事が昨日のようです。
大雑把なまとめですが、頑張って生きてくれた修平の約1年です。

1989/12/12

発熱

夜私が仕事から帰ると熱を出して寝ていた。
頭が痛い(今考えるとあまり頭が痛いと聞いたことはなかった。)
12/13〜14

熱、嘔吐、下痢

高い熱が出る。座薬を入れて落ち着くと元気が出るが又時間がたつと熱が出る。
嘔吐下痢を繰り返す。
午前中近くの小児科に点滴に行く
1989/12/15

労災病院小児科に入院

かかっていた小児科で夕方熱が下がらなかったら紹介状を書くといわれるが「今から行きますからすぐ書いてください」とお願いしてそのまま労災病院救急に行く。

すぐ入院が決まる。車から降りるとき救急まで背負っていく。
車椅子に乗せてもらい初めての入院経験でなんだかうれしそうな修平
よる熱下がらず嘔吐もする。
タオルで身体を拭くように言うと「お母さん!」とにらまれる。
看護婦さんが見ている前で身体を拭くなんてなんて恥ずかしいと思ったよう。

おなかがすいていて
「治ったら焼肉食べよう、しゃぶしゃぶ食べよう」と話す。
私が目の前で弁当を食べていると「いやみか!」と言って怒る。
1989/12/16

味噌汁を喜んで飲む

ともだちが見舞いに来てくれたよう

玩具を買って帰るが自分の思ったのと違いジャスコで替えてもらう
喜んで出したり入れたりして遊ぶ。(替えに行っといて良かった)

夜、味噌汁が出て「おいしいおいしい」と言って飲む。
朝食の味噌汁を楽しみに寝る。
夜「電気がまぶしい」という(今思ったら前兆だったのでは?)

最後に交わした言葉は覚えておらず。
1989/12/17

急性脳症発症・ICUに入る。

うーんうーんとうなるような声で付き添っていた私は目が覚める。

修平、目を開き意識なし。
ナースコールで呼ぶ。

急にひどい痙攣をはじめる。
昔の知識で痙攣をしたら舌をかまないようにという事をとっさに思い出し自分の指をくわえさせる。
先生が来る間「誰か助けて〜」と叫んでいた。
先生、注射をするが痙攣収まらず

お父さんに電話する。
何がなんだかわからず廊下でうずくまっていた。
主治医が厳しい顔をして詰め所に入っていく顔が忘れられず。

痙攣が治まらないため強い薬で寝せ,気管送管をする。
かぶるパジャマを着ていてのでどうしてして良いかと悩んでいる主治医に「切ってください、私が切りましょうか」とまで言う。
この時から良くに言ったら「思い切りが良い」、悪く言ったら「無知で怖いもの知らず」だったと思う。
ICUに入って約1ヶ月間

とにかく痙攣が治まらない

アイオナールという強い薬を使って寝せているか痙攣が治まりもう大丈夫かと切るとひどい痙攣が又来て又アイオナールの持続点滴をするの繰り返し

目を開けても私を見ていない焦点の定まらない目が悲しい

その間血尿は出る。肝臓の数値は悪くなる。
多臓器不全の一歩手前まで行っている感じ
いつ何があってもおかしくない状態と言われ続ける。

でも1ヶ月位までは脳のCTに異常はみられない。
1ヶ月を過ぎた頃私たちは面会時間をいつでも良いと許され朝から夜までICU内で付き添いをする。
(もうダメだから少しでも修平に尽くしたという時間を与えられたのだと思う)
40日目

状態はあまり変わらないがICUを出て小児科へ

気管切開をしたいとの申し出がある。

気管切開について

痙攣が強いのでアイオナールが止められないため呼吸器がはずせず管理のたのために 気管切開をしたいと主治医から申し出がある。

何のためらいもなく了承する。

後で経験者たちの話を聞くと「身体を傷つけたくない。一度切開したらもう元に戻すことが少ない」と聞く
(へぇーそんな考え方もあるんだと妙に感心した)
情報が少なかったが元気になったら元に戻せばいい、少しくらいの傷はこんな大病をしたそれが治ったという勲章になるような気がした。

辱そう

どれ位した頃か覚えていないのだが頭の中にかさぶたを発見する。
熱が出る前に髪の毛を切るのを嫌い結構長髪になっていた

看護士さんに「頭の中にかさぶたがあること」を言ってはいたが特に処置はなく
自分も湿疹ができたのだろうと軽く思っていた。

ICUを出て散髪をしてみつける。首筋あたりの上のほうから3箇所大きいじょくそうひとつは骨にまで達しているようなひどいものだった。

看護婦さんの処置を責めるより、自分ジョクソウと言うものへの知識のなさが情けなかった
30日目くらいに脳のMRIをとる。
脳の血流が悪くなっている。脳の左のほうから
「今現在の最大の目標は生きて家に帰ること」主治医にと言われる。

痙攣が収まらない、目を開けても私の顔を見ていない
多臓器不全一歩手前のような状態でとにかく生きて欲しい。
どんな状態になっても良いから生きてつれて帰りたいと良く主治医に言っていた。

とても元気で元の修平に帰れるような病気ではないと思っていたがあの時「元気にして欲しい元の修平にして欲しい」と強く望んだらかなっていたのではないか
私がどんな状態でも良いと受け入れたと言うかあきらめたから治らなかったのでは?とずっと思っている。
1990年4月20日11歳の誕生日
痙攣が少し治まり、内服薬でいけるようになり、呼吸器が外れる。
看護婦さん先生たちが集まってくださり歌を歌ってもらう。
少し痙攣も落ち着き始めてきたので誕生会をしても良いだろうということになったらしい。
5月車椅子に乗る練習をする。
はじめは心拍が早くなり痙攣も引き起こす。
やはりダメかもしれないベッドで寝たきりと思うこともあったが、車椅子に乗れるのと乗れないのでは生活の質が全く変わってくると思い少しづつ気長にのれるようにする。
1990 /5.6月 リハビリはさんぽ
痙攣が落ち1990着き始めるが、焦点の定まらない目、何一つ言葉を言わない、身体も動かさない状態に変化はない。

病院敷地内を車椅子で散歩する。
みんなの視線が痛い

「やはりこのままの状態なんだこのままの状態で家に帰らなければいけないんだ」と思うと調子の悪かった時期はまだ治療があるような気がして希望があったが
今は希望がなくなり暗く落ち込む。

汽車の見えるとこに修平を連れて行っては泣いていた。
病室ではあまり泣けなかった。
元気の良い頑張りやさんの母を演じていたような気がする。

長男や主人が一緒に散歩できるときはまだ気がまぎれて明るくいられた。

情緒不安手もはなはだしかった。
長男に一緒に死のうか?と言ってみると
「長男に一緒に死のうか?」と言うと

「僕には輝かしい未来がある。修平あんなに頑張ったんだから殺してはいけない
死ぬんならお母さん一人が死にんさい」と言われた。
(長男現在29歳輝かしい未来真っ只中?)

死んだら楽になれるだろうな「この世の地獄」とはこんなことかとも何度も思った。

でも30キロ近い修平を窓の外まで連れて出ることもできず。

又お世話になった主治医に迷惑をかけることはできないと思っていたら死にそびれた。
1990/7月 痙攣相変わらずだが一時よりは落ち着いている。
6月治療がなくなり看護婦さんや先生、部屋に来る回数が減り修平と取り残された感じで寂しい。
「取り残された寂しさより家に帰りたい」と言う私と、もっと良くなって退院させたい主人とぶつかる。
主人も良くやってくれた会社で働いた後そのまま病院で一睡もせず付き添ったりしてくれた。
自分だけつらいような気がして、主人にはよく当たっていた。

又長男も長い間両親に見放されたような状況の中でよくぐれもせず頑張ってくれた。
主人が泊まりの日などに寂しくて寝れないと朝4時くらいに病院に来たりすることもあった。

帰りたくないけど帰りたかった。

病院にいたらまだ治療があるような気がして状態が少しでも前の状態に近づくような気がして退院したくないけど退院したかった。
平成2年8月31日 静かに外泊するように退院する。1990/8/31
修平兄家の前、車椅子が通るように庭を掃いて待っている。

自分には何ができるのか考えた結論が車椅子が通りやすいように庭を掃いて待つ事だったのだろう。
入院中は私たち夫婦が修平にかかりっきりになり寂しい思いも沢山したのにまだ心配りをしようとする修平兄がうれしくもあり、悲しくもある。

家につれて帰れた安堵感より、重度重複障害児となってつれて帰る悲しさのほうが強かった。

これから家族だけで修平の命を守る事ができるのか?せっかく助かった命
生きていて良かったと思える修平の人生を作ることができるのか?

仕事へ復帰できない自分、自分ががなくなっていくような苛立ち

何もかもが不安で何もかもがつらい在宅スタートだった。

あれから14年、何も状態としては変わっていないけど結構丈夫で強い修平
相変わらず修平命で頑張ってくれる主人
あの心細さはどこへあの泣き虫はどこへ?バッチリ強い障害者の母に変身したシュウハハ
寂しい思いもしたけど、ぐれもせず福祉の道に生き生きと自分の道を歩いている長男

泣いた日もたくさんあったけど生きていてくれる!

たくさんの人のおかげで今日の幸せを感謝感謝!

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