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◆古坂道(伊勢本街道/松阪飯南町上仁柿)
以下の画像はサムネイルです。
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古道概略図
復旧計画図
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大和宇陀方面から美杉町坂本、川上を経て丹生俣から飯南町上仁柿へと続く古道は、古くは水銀輸送や長谷信仰の道として、また、北畠時代には多気本城への幹線道としての役割を担った、と言われる由緒ある道です。
古坂道はその古道のうち、旧飯南町の奥峠(現在は廃村)と上仁柿坂ノ下地区の区間の約1.5kmで、いわゆる「古坂峠」を越える道すじであり、伊勢本街道の原道であったといわれています。
江戸時代の寛文年間(17世紀後半)以降、参宮客のために現在の伊勢本街道の「櫃坂(ひっさか)」が改修された後も生活道として利用され、特に戦時中は川上山若宮八幡宮への信仰の道として多くの人が行き来してきました。
しかし昭和34年の伊勢湾台風で谷を渡る道が数箇所崩落してからは、通る人もなくなり、現在では倒木や沢崩れがひどく、長い間道路としての機能が損なわれていました。
峠の天辺近くには、延宝8年(1680)の供養碑が今も残り、古書には庵を示す石柱もあったと記されています。
かねてより地元では、この歴史ある自然豊かな道の復旧を望む声があり、今回、日本風景街道「伊勢街道」連絡協議会の復興支援を機に、仁柿住民協議会を中心とした地区内外の有志により、復旧活動を行うこととなったものです。
ゆくゆくはこの古坂道をウォークコースとし、ハイキングなどに活用していく予定となっています。
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復旧箇所画像@ 復旧箇所画像A
復旧箇所画像B 復旧箇所画像C
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◆深野紙(伊勢本街道・和歌山街道/松阪飯南町深野)
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松阪市飯南町深野地区では、慶長4年(1599)に深野村の郷士であった「野呂市兵衛俊光」が美濃から紙漉きの職人を招き、その技術を用い農閑期の副業として紙漉きがはじめられました。
文政6年(1823)には紀州藩の藩札(銀札用紙)として採用されたことにより、「深野紙」は全国でも屈指の良質和紙としてその名声を高めました。
「深野紙」は松阪商人の手で京都や江戸までも販売され、明治4年(1871)には松阪の紙商「小津清左衛門」を通し、国内初の郵便切手用紙にも使われました。
しかし昭和期以降、生活様式の変化や他産地の機械和紙に対抗できず、紙漉きは次第に衰退し昭和40年代にはすべての漉き屋が廃業となりました。
昭和62年、「深野紙」の伝統を守り優れた製紙技術の保存と近代美術工芸の研究を行なうことを目的に、旧飯南町において「深野和紙保存会」が結成されました。
ここで復興された和紙は平成6年に三重県の伝統工芸品に指定されており、現在も「深野紙」は県の財産ともいえる伝統工芸品としてその価値を高めています。
(深野和紙保存会パンフレットより)
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◆来迎寺の梵鐘(伊勢本街道・和歌山街道/松阪飯南町深野)
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飯南町深野の弧雲山来迎寺は鎌倉時代名僧といわれた重源が開いたと伝えられている由緒ある古いお寺です。
この梵鐘は文化13年(1816年)本堂再建後、明治12年(1879年)に桑名の鋳物師(いもじ)から購入した古鐘です。
後の調べから永禄11年(1568年)に越前国の八王子殿「山王権現」(現越前市)に置かれていたものが、天正年間、織田軍越前平定の際三河(愛知)の足助八幡宮神宮寺に移り、その後明治期の神仏分離により桑名に渡ったものと判明しました。
越前地方では鎌倉から江戸時代にかけて鋳物造りが盛んであり、その中でこの梵鐘は現存するものとしては最古とされています。
このように越前(福井)、三河(愛知)、伊勢(三重)と戦国時代から明治にわたる数百年を流転の運命にさらされてきた古鐘、来迎寺では希代の珍鐘として大切にしています。
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◆妻入り民家「いちのや」さん(参宮街道/三雲・市場庄)
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参宮街道の市場庄・六軒界隈は、かつて多くの商店が軒をつらね、機関(からくり)的、射的、文楽などもあり、旅人の娯楽場として賑わっていたそうです。
人の多さは、現在の郊外型大型ショッピングセンターのようなものでしょうか。
でも、生活の場でもある街道沿いの賑わいですから、いろんな人情話があったことでしょう。
市場庄には現在も妻入り格子戸の町家が20件近く残っており、そのひとつをおやすみ処として開放しているのが、「いちのや」さんです。
地元の有志による「格子戸の会」の方々が、5年ほど前からボランティアではじめられたそうです。
会では各町家に屋号の札を貼るなど、町並みを活かしたまちづくりの活動も行ってみえます。
車の往来の多い国道と違い、このように人のにおいがする旧街道は、歩いても、自転車で走っても、とても気分がよいものです。
お正月だったので、格子に餅花が飾ってありました。松浦武四郎記念館の職員さんによる、手作りの贈り物のようです。
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◆香良洲道分岐の道しるべ(参宮街道/三雲・曽原)
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参宮街道と香良洲道の分岐を示す道しるべは、三雲地域の中道公会所前、曽原の御門(みかど)橋北、中林の昭和橋近くの3ヶ所にあります。
写真は御門(みかど)橋北のものです。
この付近にはかつて曽原茶屋があり「こわめし、でんがく、さざい(サザエ)の坪焼」を売っていたとのことです。
この辺りの街道は水路と平行して通っています。
コンクリートの側溝やガードレール、電柱があるものの、それらを差し引いたかつての風景は想像に難くなく、なかなか風情があって自転車で走るには気持ちのいい場所です。
左の写真は御門橋から参宮街道伊勢方面を望む景色です。
画像を一部を加工し、当時の雰囲気に近づけてみたつもりです。
何が変わっているか、わかるでしょうか?
ヒントを残してありますので、すぐわかると思いますが^^;
(初出2006.3.25)
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◆柚原中世墓(宇気郷地区柚原)
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柚原町寺谷の丘の上にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、柚原中世墓として、墓域とともに市の史跡となっている。
塔は笠の隅飾突起の反り具合、基礎の格狭間の浅い刻線や弱々しい図象の形状、また周辺から出土された常滑陶器の骨壷の器形から、室町後期のものとされる。
柚原村誌によると、これらは通称「とのの墓」と呼ばれ、北畠滅亡時に戦死した家臣、柚原兼房とその弟「中務」の墓とされているが、根拠となる資料が明示されておらず、室町後期とされる塔の年代とも若干相違があるため、史実としては明確に断定できていない。
しかし、宇気郷地区は北畠氏本拠の美杉に近く、これら北畠滅亡にからんだ伝承はその場を訪れるものの心を引き付け、見るものの気持ちを物悲しく、無常感へと誘うものである。
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◆阪内不動堂境内(和歌山街道界隈/阪内町花厳寺)
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阪内城主阪内家の菩提寺であった華厳寺(廃寺)の奥の院として、不動尊を祀っているのが阪内不動堂である。
境内は阪内川支流の不動川(華厳寺川)上流域に位置し、本尊である不動明王は、阪内家が吉野朝廷より与えられたものといわれ、度々の火災にあいながらも、その度難を逃れ、長い間秘仏として須弥壇の奥に祀られてきた。
境内の奥には、落差約30mの不動滝が清冽な山水を落としている。滝壺の傍には水神「八大龍王」の祠があり、そこまで近寄ると細かなしぶきがとても心地よい。旧松阪市では一番大きい滝である。
その他境内には柔和な表情が何とも言えない延命地蔵「子安の地蔵さん」はじめ、大日如来、歓喜天(聖天さん)や、昭和15年に建立された歴代阪内城主の墓などが祀られている。
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◆医王寺の寳篋印塔(ほうきょういんとう)
(和歌山街道・和歌山別街道界隈/松阪飯南路)
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医王寺は日本三禅宗の一つである黄檗宗の古刹。総本山は京都宇治にある黄檗山萬福寺である。
中世の頃、安城山に創祀され、北畠国司の外護を受けたが、氏の滅亡後現在の場所に移ったという。
この寳篋印塔は二代目住職同虚(どうこ)和尚が、時の庄屋小阪八蔵信隆と共に、本堂建立の資金を用水路事業に充ててしまった詫びとして、宝永3年(1706年)に建立したものである。
干ばつに苦しむ農民たちのためにと行ったことであろうが、本人はその後近くの安城池に入水したという、悲しい過去をもつ塔である。
一般的に石造りが多いとされる寳篋印塔において、鉄製と珍しいうえ、300年前の銘文がはっきり読めるということに驚かされる。
優れた品質の鋳鉄を用いた、津藤堂藩お抱えの名工、藤原秀種による鋳造の賜物であろう。
建立のために喜捨をした和尚の知人、京都の村井氏は富豪であったというが、当時最高の鋳造技術を用いるため、相当な資金を提供したことであろう。
多くの人々の想いを一身に受けたこの鉄の塔は、今は無住となってしまったこの古寺で、その威容をひっそり静かに誇っている。
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【位置図】(松阪・紀勢界隈「五街道」ウォーキングマップより)
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◆月本追分の道標(参宮街道・奈良街道/松阪三雲路)
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月本の追分には、参宮街道最大の道標や6m余りの常夜燈などが並んでいます。
ここにはかつて役人が常駐する立場(たてば)や旅人が泊まる旅籠(はたご)、支度店(したくみせ)などがたくさんあり、奈良街道との合流地点であるこの辺りは、たいへん賑わっていたそうです。
ちなみに「奈良街道」は古くは「伊賀越えならみち」「奈良道」と呼ばれ、大和と伊勢を結ぶルートとして開けていました。
しかし、藤堂高虎の時代になり、津と上野間の往来が多くなると、津・上野間が「伊賀街道」と呼ばれるようになり、現在は旧美里村の五百野(いおの)からこの月本の間だけにその名が残っているようです。
この追分のある曽原町を前後する参宮街道沿いには、ほかにも香良洲道や初瀬街道との分岐、合流を示す道標が多くみられ、街道ウォークを楽しめる地域でもあります。
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◆出雲ムラの「狛犬を支える相撲力士像」(伊勢本街道/桜井)
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伊勢本街道ウォーク「はじまりの道を歩く」では桜井、榛原と歴史遺産の豊富な街を歩いたのですが、その時一番印象に残ったのが、出雲地区の十二柱神社内にある「狛犬を支える相撲力士の石像」です。
特に力士たちのおなかの辺りのデティールは、ものすごくリアルで、石なのにつきたてのおもちのような造形は、どこかユーモラスで愛嬌があり、一度見たら忘れられない逸品です。
この地区には「野見宿禰(のみのすくね)」の塚跡があり、その塚の上に置かれていた五輪塔も境内にあります。
「野見宿禰」は相撲の神さまとして有名ですが、古墳時代に殉死にかえて埴輪の案を出したことで土師部(はじべ=埴輪職人)のご先祖様とも伝えられています。
出雲地区は土器作りが盛んだったようで、土師の子孫が高い技能と経験を石材彫刻に活用し、「野見宿禰」さんを称えて造った様に感じました。
お土産でミニチュアでもあれば人気が出そうです(^^♪
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◆窪田宿の常夜燈(伊勢別街道/津)
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伊勢別街道窪田宿にあるこの常夜灯は、文政14年(1817)近江の国の商人が、伊勢神宮へ寄進するために運んできたものの、このあたりで荷車が壊れてしまい、当宿の旅籠、近江屋の協力によりこの地へ据えられたものだそうです。
近江の国を表す「江州(ごうしゅう)」の文字の下には、琵琶湖の東を表す波模様のレリーフが刻まれ、その下には千余りの寄進者の名前がびっしり刻まれています。
高さは8.6mあり、その堂々とした姿からは、祈願された多くの人たちの気合が感じられます。
文政のおかげ参りの頃なので大勢の旅人の目に留まったことでしょう。
今も当時の面影を伝える、この常夜燈。
はたして、ここまで運んできた人たちは、無事伊勢参拝できたんでしょうか?
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◆大河内(おかわち)町茶屋にある道しるべ(和歌山街道/松阪)
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国道166号線と根木峠との分岐となる交差点近くの街道に、自然石に大きく「左大師道」書かれた道しるべが2つあります。
大師とは多気町(勢和)ののことで、ここから根木峠をこえて勢和村に続く道が大師道となります。
この分岐には他にも「南無阿弥陀仏」「金剛大日」と刻まれた石碑があり、街道全体として石ものが少ない感のある和歌山街道において、一箇所に4つも立つこの場所は、私の好きなポイントのひとつでもあります。
このあたりは「茶屋」とよばれ、明治頃までは数件の旅籠があったそうです。
かつては、ここを拠点に丹生大師に向かった人も、多かったのではないでしょうか。
2枚目の写真は、丹生大師への道と、私の愛車「Silver Giant号」です^_^;
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◆辻原(つじわら)の道しるべ(和歌山街道/松阪)
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松阪市辻原町にある道しるべは、和歌山街道と多気道の分岐を示すものです。
正面には大日如来が彫られていて「右あららき多気 左紀州道」と刻まれています。
「多気」とあるのは多気町ではなく、旧美杉村下多気方面のことであり、「あららき」はその途中の柚原町にある蘭(あららぎ)神社かその地区のことだと思われます。
紀州道とは和歌山街道ことで、そのほかこの街道は伊勢南街道とも呼ばれています。
下の写真は瀬戸峠から辻原へ向かう街道風景です。
このあたりの旧街道は国道166号線により、きれぎれになってしまってますが、ところどころ残る街道を歩くと、なにやらほっとした気持ちになります。
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