1.巻向から桧原神社へ
昨晩、伊勢地方は大雨だったので、今日はどうなることかと思っていましたが、出発時には暑いくらいの天気となりました。
本会主催のウォークはいつも雨にやられるので、覚悟の上でしたが、どうやら今回は大丈夫のようです。
第一回のコースは桜井の桧原(ひばら)神社から山の辺の道経由で長谷寺に向かい、榛原まで伊勢本街道を歩くものです。集合場所のJR巻向駅に参加者約40名が揃うと、いよいよ出発です。午前中は地元のボランティアガイド薮内さんの同行により、説明を受けながらのウォークです。
三輪山を左手に歩き始めると、右手にこんもりした杜がひときわ目立って見えます。この杜は箸墓(はしはか)古墳といい、以前より地元では卑弥呼の墓だと言われていたそうですが、最近いろんな調査によりその説が有力になってきているそうです。
実証されれば、国宝級でしょうか。そういわれると、そこかしこの田や森が神秘的に見えてきて・・・。
はっきりしないところが古代遺跡のいいところで、古道歩きの醍醐味でもあります。(空想癖のある人はなおさらです(^^♪)
邪馬台国のイメージを勝手に抱きながら10分ほど田園風景の中を歩くと、歴史街道の案内板があります。そこを左に曲がり、三輪山に向かうすこしきつめの坂を一気に登り、井寺池のほとりを進みます。
濃いオレンジ色の実がたわわとなる、柿の木に囲まれて歩く道は、これぞ奈良の風景、という感が。
道端には万葉の歌が彫られた石碑が2つありました。川端康成と東山魁夷の揮毫によるものです。奈良には著名人による万葉歌碑が、多く設けられているので、それを巡るのも楽しそうです。
その横で果樹園の方から熟しきった柿をいただきました。その甘いことといったら。
食べ歩きをしているうちに最後尾になってしまい、気がつくと桧原神社に到着です。
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2.三輪山を祀る大和の国
今回のウォークでは境内の中で正式参拝をさせていただくのですが、遠方からの参加だったこともあり、玉串奉納の役を仰せつかりました。
桧原神社は大神神社の摂社のひとつで、三輪山中にある磐座(いわくら)を神体としているので本殿はなく、玉垣で囲まれた三ツ鳥居に向かい参拝します。この神社は伊勢に神宮が鎮座するまで、天照大神が祭られていたため、元伊勢とも呼ばれています。
伊勢地方から奈良を歩きに来て、元伊勢でお祓いを受けるという、なかなか貴重な体験をさせていただきました。
参拝後は山の辺の道を西に向かい、大美和の杜展望台で一休み。ここからは大和三山の眺望が楽しめます。
さらに西に向かい、大神(おおみわ)神社の拝殿、聖徳太子創建という平等寺を通り抜け、金屋の石仏を見学。
大神神社は大和「一の宮」で、日本で最も古い神社のひとつでもあります。背後の三輪山を御神体とするため本殿は設けず、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝します。
桧原神社でもそうでしたが、このあたりでは自然物を御神体とする原初的な信仰が今も残されており、太古の感覚が呼び戻されるかのようです。
山の辺の道を終えると、仏教伝来の地、海柘榴市(つばいち)に到着。このあたりは古代、東西南北の陸路や難波への水路が集まる重要な市であったそうです。
そろそろ昼時、おなかが鳴って来ました。この先10分ぐらい大和川沿いを東に歩き、玉列(たまつら)神社でお昼をとることに。
玉列神社も大神神社の摂社ですが、境内や後ろの山に、200種類約400本の椿の木があるため、玉椿大明神とも呼ばれており、毎年3月には椿まつりで賑わうそうです。
同じ場所にある慈恩寺の境内には、付近の伊勢街道沿いから移した石仏や道標が多数祀られていました。また樹齢900年余のケヤキもあり、気持ちの落ち着くところです。
午後からは伊勢本街道を長谷寺に向けて歩きます。
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3.長谷寺目指して伊勢本街道を往く
黒崎の古い町並みを行くと、ある家の軒に荷車の車輪をモチーフにした案内板がありました。
「内宮まで100.2Km」という表記が、疲れた体に一服いれてくれます。
おそらく手作りのようです。ここの家人、ただものではなさそうです。
30分ぐらい歩くと出雲地区に。ここの十二柱(じゅうにはしら)神社の狛犬は、なんと相撲力士が支えています。
力士たちのおなかの辺りのディテールは、ものすごくリアルです。
石なのにつきたてのおもちのような造形はどこかユーモラスで、愛嬌があります。お土産でミニチュアでもあれば人気がでそうです。
十二柱神社はかつての出雲ムラの村社で、神代の七神とその後の地神五神を祭神としています。この地区には相撲の神様である「野見宿彌(のみのすくね)」さんが住んでいたという伝承があり、それで力士が支えているのでしょうか。
出雲から10分ほどで無事長谷寺のまちに到着。
入り口の赤い門は、写真ではよく見る光景ですが、歩いてここまできて実物をみると、感慨深いものがあります。参道は完全な観光地ムード、老若男女、学生服も大勢です。
ここからは、榛原の菅谷省吾先生に同行していただくことになりました。
菅谷先生は伊勢本街道のスペシャリスト。私が生まれる前から第一線でご活躍の方です。最近本街道を克明に解説した書籍も出されました。
ちなみにご年齢は甲子園と同じきのえね生まれです。私は甲子園の名のいわれを知らなかったので、ピンきませんでした。ご高齢なのです。でも、街道案内をされるときはいつも先頭切って、ハイペースでいくので、驚きです。かつてはアルピニストだったそうです。
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4.化粧坂から西峠へ
さていよいよ一つ目の難関、化粧坂(けはいざか)です。
古典の「坂」は峠路をさしたものだそうで、トウゲはタムケ(手向)の意から、また山の鞍部を指すタワ・タオリから出たタワゴエのつづまった語ともいわれています。
峠という呼び名は坂より新しく、日本製の漢字です。そのため伊勢本街道の峠も多くは坂と呼ばれているようです。
峠に向かう坂には2つルートがあり、ひとつは街の中ほどにある伊勢辻の道標を南に折れ、稲荷の祠前を左に進む下化粧坂。今回はお寺から下って連歌橋を渡り、与喜天満宮の鳥居前から登る上化粧坂を行きます。
与喜天満宮前からは、立派な僧坊御堂の建ち連なった長谷寺や街の眺望が楽しめます。
逆方向ですが、かつて松阪から長い山中の旅をしてきた本居宣長は、眼前にこの景色を眺めて、まるで別世界に来たような気持ちがすると感嘆したそうです。
が、鳥居前を過ぎると景色は一変し、いきなり急勾配の岩みちに。
2度3度と九十九折りが続き、果たしてこんな調子で何回折れるのか、と心配になりましたが、息が上がる前に頂上になり、ほっと一安心。
初めての道は先がわからないので、不安なものの、それもミステリーツアーのようで楽しめます。
化粧坂を後にし、すこし里道を歩き、猪よけの柵をのりこえ、あぜ道沿いに進むと国道165号へ出ます。このあたりからは国道が旧道を踏んでしまっているところが多く、歩道と旧道を交互に進みます。
旧道を行くと、途中、吉隠(よなばり)、角柄(つのがら)といった万葉集に歌われる古い歴史をもつ里を通ります。「よなばり」の語源は「よき、にいばり(新墾)」「つのがら」は角が隅に通じるので隅が原がツノガハラと転訛したものだそうです。
この里々の歴史を菅谷先生に口演していただきましたが、なにせ「日本書紀」「万葉集」「延喜式」などの言葉が頻繁に出てくる、1300年以上の歴史ある場所なので、詳細はここでは省きます、というか、私のレベルではとても解説はできません。またの機会にしましょう(^^ゞ
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5.西峠を超え、榛原へ
歴史の里を過ぎると、今度はしばらく国道を歩きます。そして2つ目峠「西峠」に。ここも国道と交差しているため、峠そのものは国道沿いとなります。
ここに2年前のリレーウォークで記念にプレートを付けたのですが、下見ではなくなってしまったと思いきや、今日もう一度探すと、しっかり残ってました!
かなり傷んでますが、私は不参加だったので、話に聞いていた場所で実物を見ると、感慨もひとしおです。やはり、名残というのは嬉しいものです。
ここまでくると、ゴールの榛原まではあと一息。西峠から続く歩道をしばらく歩き、狭い露地を通り抜けると、墨坂伝称地の石柱がみえます。
そうこうするうちに、ゴールの札の辻(代官所のお触れなどを掲示する高札場のある辻)に到着。目の前には今も当時の面影を残す旧旅籠「あぶらや」が。
榛原は伊勢街道の重要な宿場として賑わっていた街で、「あぶらや」は本街道と青越え道(初瀬街道)の分岐点にあり、大きな道標や常夜灯道路元標もそばにあり、ここは街の中心地であったことが伺えます。
かつて本居宣長一行も泊まった旅籠「あぶらや」前で記念撮影を行い、ウォークは無事終了となりました。
長い道のりと思った14.8kmも終わってみれば、まだまだ歩けるぞ、という感じです。
「来年4月頃、榛原から室生寺まで歩こか?」とすでにスタッフは次の計画を練りだしてます。
こうやって少しずつ本街道を歩いて、ぜひとも伊勢まで辿って行きたいものです。
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(06/11/18)
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