第二次大極殿跡地
第一次大極殿の東に位置して基壇が発掘され
現在は整地されているが、復元は未定。
高見座(たかみくら)
第一次大極殿の中の中央にあり、即位式や外国使節
謁見などの主要儀式の時に天皇が着座される玉座。
遣唐使船甲板
遣唐使や主要使節は甲板上の小部屋で起居したが
水夫などは船底に並んで休んだ。
遣唐使船
遣唐使中止400年後に描かれた絵巻物「吉備大臣
入唐絵詞」を参考に160人乗りを想定して復元された。
朱雀門
朱雀は南を守護する中国の伝説上の鳥であることから、第一次
大極殿の800m南に建てられた幅25m、奥行き10mの平城京の
正門で、外国使節の送迎などに使用された。
1964年の発掘調査で位置と規模が確認され、1989年から基壇
整備が始められて、1998年に復元された。
遣唐使船
百済からの技術移入で作成されたジャンク船型で、長さ30m、
幅8m、排水量300t、積載重量150t、乗船人数は最大160人と
想定されている。初めは一、二艘で出航していたが、難船率が
非常に高かったので、後に四艘になった。遣唐使は約20回出航
したが、すべての船が往復出来たのはわずか一回だけだった
らしい。
遣唐使
派遣された人物は、山上憶良、吉備真備、最澄、空海(志願僧)
などで、890年頃、菅原道真も任命されたが非常に危険と言う
ことで、遣唐使そのものを中止させたと伝えられている。
平城京
元明天皇が藤原京から遷都された710年から784年に桓武天皇が
長岡京に遷都されるまでの74年間、奈良の都だったが途中、聖武
天皇が740年に恭仁京(京都府木津川市)へ遷都、さらに744年に
難波京へ遷都された。しかし翌745年に結局、平城京に戻された。
長岡京遷都後は南都とも呼ばれた。江戸時代に平城京の痕跡が
発見され、1924年から本格的な発掘調査が行われた。
大極殿
天皇の即位式や外国使節謁見に使用され、元日には諸臣の朝賀
の場としても使われた。平城京には第一次と第二次の二つの
大極殿があったが、現在は第一次だけ復元されている。
第一次大極殿:恭仁(くに)京へ遷都されるまでの大極殿で、難波
京遷都の時に取り壊された。復元工事はH13年に着工し19年度に
完成したもので、正面44m、側面10m、高さ27mで、9万7千枚の
屋根瓦が使用されている。内部に天皇の玉座「高見座」と鴟尾が
展示されている。
第ニ次大極殿:難波京から平城京へ戻った後に建設された大極殿
で、現在その基壇が発掘されて敷地跡が整地されている。
大極殿前のイヴェント・散楽
大陸から移入された、物まね、軽業、曲芸、踊りなどの
大衆芸能で、のちに発展して能、狂言の元になった。
奈良の都・平城京(南都)
第一次大極殿正面
平城京1300年祭りに間に合うようにH13年着工、
H19年に復元完成した。
奈良市二条大路南4丁目6-1 撮影:H22.10.20
金色の鴟尾
大屋根の飾りは当時は貴族が履いた沓型で、室町
時代以後は鯱が使われるようになった。