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石見銀山

世界遺産・石見銀山遺蹟 (日本の世界遺産リスト付)

島根県太田市大森町 撮影:H19.10.15

石見銀山地区の景観
江戸時代の代官屋敷、武家屋敷、豪商の家や民家が残され、明治時代の裁判所もあり、歴史的景観も見事である。電柱が景観を損ねているので、電線の地下埋設工事が現在行われている。
山間地域で道路が狭く、世界遺産に登録されて以来、観光客の殺到で車は代官所前で通行止め、そこから
マイクロバスに乗り換えて各地区へ行く事になる。
大久保石見守保長安(1545〜1613)
武田信玄蔵前衆として活躍、後家康に仕えて初代石見銀山奉行、1603年には佐渡金山奉行、伊豆銀山奉行も兼ねて天下総代官と言われた。1613年の死後、莫大な蓄財のため種々の罪科で一族、関係者が処刑された。

石見銀山遺蹟
2007.7.2にユネスコ世界遺産委員会が「石見銀山遺蹟とその文化的景観」として世界遺産として登録した、日本で14番目の遺蹟であり、アジアの鉱山遺蹟では始めてである。
銀山地区だけでなく、銀や物資輸送のための街道や沖泊港、温泉津(ゆのつ)温泉街も世界遺産に含まれている。

石見銀山の歴史
延慶2年(1309)、守護であった大内氏が発見したとの説もあるが、大永6年(1526)に博多の豪商・神屋壽禎が東方から山の一部が光るのを見つけたのが始まりとされている。戦国時代の大内氏、尼子氏、毛利氏が争奪を繰り返し、徳川時代になって大久保石見守長安が銀山奉行になって、直山制の公費投入による間歩の開発など様々の改革を行い、銀の増産に成功してた。その後産出量が年間38tに達し、世界の銀産出量の1/3を占めたと言われている。
当時、中国では銀貨が主通貨で、スペインやポルトガルは、日本銀を中国に運んで高値で売りつけて
大儲けをしていた。
昭和18年に廃坑。

石見銀山の争奪
1531年、10km南方の川本に本拠を置く小笠原氏が領有。
1533年に灰吹法が伝来して銀の産出量が増えるや、
守護の大内氏が奪取した。やがて中国の大大名になった尼子氏が領有することになったが、1556〜1562年にかけて尼子・毛利の戦いが8回繰り返され、終に毛利氏が領有することとなった。秀吉の時代、銀山を支配下に置こうとしたが、毛利は天皇の御領所として毎年銀を運上していたため運上銀で我慢したらしい。関が原の戦で徳川家康に敗れた西軍の大将・毛利は、大名として存続する見返りに石見銀山を家康に差し出したふしがある。関が原敗戦のわずか10日後のことである。

日本の世界遺産                  登録年月
法隆寺地区の仏教建造物 文化遺産 奈良県 1993年12月
姫路城 文化遺産 兵庫県 1993年12月
屋久島 自然遺産 鹿児島県 1993年12月
白神山地 自然遺産 青森・秋田県 1993年12月
古都京都の文化財 文化遺産 京都府、滋賀県 1994年12月
白川郷・五箇山の合掌造り集落 文化遺産 岐阜・富山県 1995年12月
厳島神社 文化遺産 広島県 1996年12月
広島平和記念物(原爆ドーム) 文化遺産 広島県 1996年12月
古都奈良の文化財 文化遺産 奈良県 1998年12月
10 日光の社寺 文化遺産 栃木県 1999年12月
11 琉球王国のグスクおよび関連遺蹟  文化遺産 沖縄県 2000年12月
12 紀伊山地の霊場と参詣道 文化遺産 三重・奈良・和歌山県 2004年 7月
13 知床 自然遺産 北海道 2005年 7月
14 石見銀山とその文化的景観 文化遺産 島根県 2007年 7月

      江戸風ファッション・ショップ
外観と内部の意外性が見事に調和した山間の店。

       自動販売機
自動販売機も木製で、景観に配慮されている。

          大森代官所跡
1815年建設で、両側に門番詰め所や仮牢、奥には資料館があり、銀山地区の入り口にある。

          銀鉱石
鉛鉱と一緒に骨灰を塗った反射炉で溶解すると鉛だけが灰に吸収されて銀塊が残る灰吹法で生産量が飛躍的に増加した。

           武家屋敷・河上家
江戸時代、大森代官所役人だった武士の屋敷。現在公開されている唯一の武家屋敷。

        古風な町並み
江戸、明治の家並みが温存されていて、現在は電線の地下埋蔵工事が進行中で、やがて目障りな電柱も無くなる。

                    龍源寺間歩(まぶ)の入り口と坑道内の掘削穴
500以上ある坑道で公開されている唯一の間歩。坑道は平均高さ1.8m、幅1.2m、長さ600m。江戸時代の工夫の手当ては良好で、裕福な暮らしをしていたが、構内の環境は悪く平均寿命は30歳台であった。2008年春には最大の大久保間歩も公開予定。

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