隠岐諸島
後鳥羽院天皇行在所跡(海士町)
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隠岐国分寺(島後)
隠岐諸島
島根半島の40−60km北方にある隠岐の島の正式名称は隠岐諸島と云い、隠岐の島は通称である。最大の島を島後(どうご)、その他3島を島前(どうぜん)と云い、それぞれ隠岐の島町、西の島町(西の島)、海士町(中の島)、知夫村(知夫里島)と云う。
隠岐諸島の成り立ち
6-700万年前に海底噴火で出来た諸島で、特に島前3島は外輪山を形成して、それに囲まれた中海は世界的にも珍しいカルデラ湾を形成している。そのため各島の特に西海岸には奇岩、絶壁の観光名所が多い。
牛突き(闘牛)
島では昔から牧牛が多く高原で放牧されているが、子牛同士の頭突きをご覧になった後鳥羽院が大そう喜ばれたので、その後、お慰めのため闘牛が始まり、現在では闘牛としても飼育され、大相撲なみの番付表も作成され、観光の一環として闘牛場も整備されている。
闘牛場では年行事と、観光用も随時行われている
玉若酢命神の八百杉(島後)
かぶら杉(島後)
通天橋(西の島町・国賀海岸)
島根県隠岐郡隠岐の島町、西の島町、海士町、知夫村 撮影:H27.6.16-18
高貴人の流人島
小野篁、後鳥羽院、後醍醐天皇など有名な政治家が多い。
小野篁
遣唐使として2度出帆したが暴風で帰国し、3度目の遣唐使を拒否して嵯峨天皇の怒りに触れ、隠岐の島に流された。流される時の心情の歌「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」は百人一首に入っている。
後鳥羽院:
1221年、北条義時追討の院宣を出したが幕府の大軍に敗れて、隠岐の島へ配流され、19年後に島で崩御された。歌人としても著名で「新古今和歌集」の編集をを藤原定家らに命じられた。「人もをし人も恨めしあじきなく世を思うゆえにもの思う身は」は百人一首に入っている。
後醍醐天皇
1332年元弘の乱で隠岐の島に流されたが、翌1333年に島から脱出し、名和長年、児島高徳、新田義貞、楠正成らの協力で帝位を奪回して、建武の中興を成立させた。
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隠岐神社(海士町)
隠岐の牛突き
浄土が浦(島後)
赤壁(知夫村)
摩天崖(西の島町・国賀海岸)
国賀海岸の観音岩
ローソク岩(嶋後・北西海岸)
隠岐諸島の地図と交通便
夕刻、夕陽が頂上に架かる頃を見計らって遊覧船で見るには、この近くに宿舎を確保したい。
近畿から隠岐の島へは、伊丹空港から45分で着く航空便が便利。
鳥取県・境港のフェリーがあるが、京阪神からは6−7時間かかり不便である。