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四天王寺

    四天王寺

四天王寺様式: 仁王門、五重塔、金堂、講堂の中心伽藍を南北一直線に配置し、
 その回りを回廊を巡らせて囲っている方式で、金堂が本堂である。
 現在の配置も飛鳥時代当初の様式をそのまま復元している。
  
災禍と復興
 
 四天王寺の歴史は焼失と再建の繰り返しである。
 平安時代、天徳4年(960)火災で焼亡。
 南北朝時代、数度の戦場となり焼失。
 室町時代末期、応仁の乱で放火による焼失。、
 戦国時代、石山本願寺攻めで焼失。大阪冬の陣で焼失。
 江戸時代、享和元年(1801)雷火で焼失
 昭和時代、室戸台風および大阪大空襲で壊滅。
四天王寺の宗派: 永らく天台宗であったが昭和24年に独立し、聖徳太子の
 「和を以て尊しとなす」の和にちなんで「和宗」を創設した。 

車では阪神高速の高速1号環状線)天王寺ICが近くて便利。南大門の手前
右側に50台の駐車場がある。電車の場合は地下鉄・谷町線)天王寺前夕陽丘
が便利。JRでは大阪環状線)天王寺駅から約1kmで南大門へ着く。

            五重塔
聖徳太子が仏舎利6粒と自分の髪6髦を礎石柱の中に納めたので「六道利救の塔」とも言われる。

四天王寺縁起:
 寛弘4年(1007)金堂六重塔中で発見された。それによると、物部氏と曾我氏
 の合戦の折り、曾我氏についた聖徳太子は形勢の不利を打開するため、自ら
 四天王像を彫りこの合戦に勝利すれば、四天王を安置する寺院を建立しよう
 と誓って、勝利の後に建立されたとある。
四天王: 仏教界の須弥山の東西南北を守護する仏で、最初インドで誕生した時
 は温和で華麗な衣装を着けた貴人であったが、中国に渡ってから甲冑を着け
 た武人に変わって日本に伝わった。当初は四天王が本寺の本尊であったが、
 平時代から救世観音菩薩が本尊となり金堂に安置されている。
   東門守護:持国天
   南門守護:増長天
   西門守護:廣目天
   北門守護:多聞天

大阪市四天王寺区天王寺1-11−18 撮影:H21.4.20

大阪市内唯一の大寺院。推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立された日本仏法最初の官寺であるが、大阪の中心にあったためその後の度々の戦火で消失したが、その都度再建されてきた。しかし第二次世界大戦の大阪大空襲で殆ど灰燼になり、現在の建物は昭和38−54年に再建されたものである。

四天王寺境内図
南大門、五重塔、金堂、六時堂が南北一直線に並んでいるのが判る。西大門側に伽藍内部拝観の入り口がある。

           六時堂と石舞台
昼夜6回諸礼讃が行われるので六時礼讃堂。手前の池は亀の池で石舞台がある。

       石の鳥居と西大門
お寺の鳥居は珍しく、1294年に木造から石造に建て替えられた。奥に見えるのは西大門。

         五重塔内の菩薩像
塔内は階段で最上部まで誰でも登ることができ、途中に色々な仏画、仏像が飾ってある。
              講堂
内部の東部を冬堂と呼び十一面観世音菩薩、西部を夏堂と言い丈六阿弥陀如来が祀られている。
              金堂
本尊・救世観音を祀り、毎日11時に法儀を行う。基壇下の青竜池から白石玉出の清水が湧いている。

              南大門
表玄関に相当し、北へ向かって仁王門、五重塔、金堂、講堂が一直線の並んでいる。

            中門(仁王門)
五重塔の前に位置し、左右から講堂まで五重塔と金堂を取り巻く回廊が巡らせてある。

          中門の仁王象
右(東側)が那羅延金剛力士、左(西側)が蜜迹金剛力士の像である。