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宗矩が寛永15年に父石舟斎供養のために建て、沢庵和尚が開基の柳生家菩提寺である。この地は元柳生家の城があった場所で、石垣、掘割などにその面影が残っている。

柳生の里へは、名阪国道)針IC又は奈良公園の東からいずれも369号線を標識に従って進めばよいが、針ICからは途中すれ違い困難な狭い山道があるので、奈良方面からが無難。
駐車場は369号線から芳徳寺方面に入ると直ぐ左に市営駐車場があり、観光パンフレットも入手できる。

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柳生の里

陰流→新陰流→柳生新陰流
愛州伊香斎(1452-1538):陰流の創始者。伊勢の国の生まれで九州の鵜戸神社で修業し天井からぶら下がった蜘蛛の動きを見て編み出した。
上泉伊勢守秀綱(-1577):
新陰流の創始者。塚原卜伝(1489-1571)に剣術を習い、愛州伊香斎から陰流を伝授された。上杉方・大胡城主であったが、北条に敗れて城を明け渡して諸国回遊の旅に出て、柳生に二度立ち寄り柳生宗巌に新陰流を授けた。
柳生石舟斎宗巌(1527-1606):上泉伊勢守の宿題の無刀取を創出し、柳生新陰流を名乗った。相伝は五男の宗矩やその長男の十兵衛ではなく、長男・巌勝の子の兵庫助利巌(尾張家の剣術指南役)に授けた。
柳生但馬守宗矩(1571-1646):石舟斎の五男、関が原の合戦前から徳川家康に仕えて剣術指南役になり、門弟を全国の大名家の剣術指南役に送り込み、大目付として徳川三代の礎造りの功績で12,500石の大名に上り詰めた。郷里に石舟斎供養の菩提寺・芳徳寺を建立している。
柳生十兵衛三巌(1607-1650):徳川家光の指南役になったのち、諸国を回遊し剣名全国に轟く。後柳生の里に帰り、門弟13,500人も指導したと言う。父宗矩の死後その所領の内8,000石の旗本となったが、近くの弓ケ渕で44歳の謎に包まれた急死で世を去った。

柳生家:菅原道真の末裔で南北朝時代に南朝に就いて功績があった豪族で、戦国時代には小さな城を持っていたが筒井家と戦い落城し、そのご松永久秀方に就いた。久秀が信長に背いて敗れたのを機に柳生荘に閉居したが、宗巌の時代、秀吉の検地令で柳生家の陰田が露見して領地全て没収された。それ以後領地回復が柳生家の悲願となり、無刀取を家康に披露して気に入られ、5男宗矩を家来に差し出した。宗矩は関が原の合戦で情報集めや背後撹乱などで認められ、家康没後は土井大老、知恵伊豆、春日局と協力して徳川幕府を支えて大名となり、悲願を達成した。
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柳生の里案内図
十兵衛三巌の墓石

寛永3年十兵衛が諸国回遊に先立つ墓参の際に植えて350年経つが、2度の落雷で枯れてしまった。

十兵衛杉

大名になった宗矩の墓石に次ぐ大きさで、徳川家での石高や地位で大きさで決まっているようである。

本堂の三像

芳徳寺本堂内に安置されている、左から本尊の釈迦如来、宗矩、沢庵和尚の像。

大正15年に芳徳寺住職に赴任した定芳和尚が、昭和38年に全国から寄附を募って再建したもので、現在も使われている。

墓地の右隅の方にあり、意外や宗矩や十兵衛の墓石と比べるとかなり小さい。

石舟斎宗巌の墓石

天石立神社入り口近くにある茶畑で、見事に手入れの行き届いた鮮やかな緑で、一刀石とは対照的なさわやかさにしばし見とれてしまう。

天石立神社
柳生の里

石舟斎が修業中に天狗と出会って試合をし、 一刀のもとに天狗を切り捨てたところ、 その場にあった巨石を真っ二つに割っていたと言う伝説の石。

奈良市柳生下町491 撮影H20年5月30日

一刀石へは、正木坂道場下から山道を20分ほど登ることになる。
十兵衛杉は信号付近で左側前方の中腹に聳えて見えるので近くまで行かなくてよい。

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芳徳寺
正木坂道場
一刀石近くの茶畑
一刀石(7m四方の巨岩)
柳生新陰流発祥の地: 柳生石舟斎宗巌が上泉伊勢守秀綱から真陰流の印可を受け、無刀取を会得して柳生真陰流を起した武芸の里。徳川将軍家の剣術指南役や大目付となり1万2千石の大名となった宗矩よりも、その嫡子・十兵衛の面影が正木坂道場や十兵衛杉に鮮やかに残っている。

手力男乃命が開いた天岩戸の扉が飛んできたと言われる巨岩を神体として祀っていて、古来柳生修練の場でこの奥に一刀石がある。