●2000年10月 エジプト旅行記
第四日目(其の三) 夕暮れのスーク
観光地にもかかわらず船着場ではなかなかタクシーが捕まらなかった。たいていの客は乗ってきたタクシーを待たせておいて、神殿から帰ってくると再びそのタクシーに乗ってアスワン市街なり、他の観光地に向かうらしい。空港から乗ったタクシーの運ちゃんにも貸し切りを勧められたが、僕等は人の何倍も遺跡見物に時間がかかるし 、カイロでアフマドにしてやられた経験があるので断ったのだ。しかしどうやらここアスワンではチャーターするのがスタンダードなようだ。駐車場に停まっている数台のタクシーを聞いて回ったが、みんな客待ちだった。 しばらく土産屋などをひやかしながらタクシーがやって来る度に、フリーかどうか聞きに行かなければならなかった。ようやくフリーのタクシーをゲットした僕等は、アスワンの駅までしばし対向車線走りまくりのスリリング・ライドを楽しんだ。
ところでこのタクシーの運ちゃんは陽気な男で(運転は手荒いが)ずっとニコニコしてお喋りしていたのだが、僕が何気なく「ハッジはしたことある?」と聞いたときだけ、怒りの混じった不機嫌な表情になった。 “ハッジ”とは“イスラームの5つの柱”と言われるムスリムにとっての五つの義務の一つで、聖地メッカに巡礼することだ。他の四つ(信仰告白、一日5回の礼拝、喜捨、ラマダン月の断食)と違い、誰にでも出来ることではないので「可能な者は」という注釈付きなのだが、やはり“ハッジ”を行った者は周囲から尊敬され、羨ましがられるらしい。実際この後行ったルクソールで見かけたのだが、ハッジを済ませた者は自分の家の壁にハッジに関する絵を描いたりして、これみよがしにそれを誇っている。しかし、アラブ世界の大部分を占める低所得者にとってはサウジアラビアのメッカまでの旅費などそう簡単に捻出できるわけはなく、いわば一生の夢のようなもののようだ。だからタクシーの運ちゃんは何も知らない金持ち外国人の僕の無邪気な質問に、ムスリムとしてのプライドを傷つけられたような気がして怒ったのかも知れない。運ちゃんは語気を荒げ「俺たち貧乏人にハッジなんてできるわけないだろ!」と言うと、怒りと諦めと悲しみがない交ぜになったような表情を見せて、しばらく黙ってしまった。旅行ガイドブックでは、現地の人と政治や宗教、社会問題などについて突っ込んだ話をするのはタブーとされている。たしかに時には、こちらの無知から相手の機嫌を損ねてしまう事もあるだろう。こういった話をするときは慎重さが必要なのも確かだ。しかしそれを最初からタブーとして避けるのでは異文化の中を旅行する面 白味がない気もする。旅はまさに自分のそれまでの世界観を崩し、新しい視点を学ぶ学校のようなものなんだし。考えてみれば旅行費用とは旅行先の国に対する授業料の様なものかも知れない。とは言え運ちゃん、ごめん。
アスワン駅前でタクシーを降りた頃にはもう空は薄いピンク色に染まっていた。駅で夜7時発のルクソール行きの切符を無事買って、遅いランチを食べようと賑やかそうな方向へ歩き出した。かなりお腹が減っていたので、駅から一番近いところの食堂に駆け込んだ。そこはせいぜい30平米くらいの小さく汚い街食堂だったが、駅前という立地から外国人もよく来るのか英語メニューも完備していた。定食のようなセット・メニューを二人とも頼んだが、これが美味しかった。特にどこがどう美味しいっていうわけじゃないんだけど、何故かこのエジプト旅行中で最も満足感を得た食事となった。後で聞いたら末ちゃんもそう思ったそうだ。でも後から冷静に考えると、このときはとにかく腹が減っていたし、値段(安い!)の割に品数も多く、その全てが不味くなかったので高評価につながったのかも知れない。正直言って食べ物の面 ではあんまり特筆すべき物の無いエジプトに於いて、このアスワン駅前の安食堂が僕等の記憶の中で未だに眩しい輝きを放っているのはまぎれもない事実だ。
列車の出発時刻までまだ大分あるので、僕等はそれまでアスワンのスーク(市場)をぶらぶらして時間を潰すことにした。カイロやアブ・シンベルでは市場に行く機会がなかったので、これが僕等のスーク初体験だ。夕刻のスークはすごい賑わいだった。店先に積み上げられた色とりどりのスパイス、地べたに並べられた水パイプ、ありとあらゆる生活雑貨と土産物。そして商人達の威勢のいい呼び込みの声。今まで観てきた偉大な遺跡達は遠い過去の、いわば死んだエジプトだが、これはまさに今生きているウルサイほどのエジプトだ。しかし全長2百メートルほどのスークを当てもなくぶらつく事が、思ったよりも疲れる行為だということがすぐわかった。バックパックを背負った日本人観光客丸出しの僕等はたちまち、土産物屋の呼び込み達の格好の標的にされてしまったのだ。次から次へとかけられる「ヤバニー(日本人)!」の呼び声や、「ミルダケ、タカクナーイ!」、「ヤマモトヤマー!」など誰が教えたか知らない怪しいニホンゴの数々。曖昧な笑みを浮かべて過ぎ去ると背後から「サラバジャー!」と来た。ちなみに丁度このとき隣国のレバノンでサッカーのアジアカップが開催されていたのだが、日本代表チームはなかなか良い試合をしていてエジプトの人々にも認められていたらしい。方々で「タカハッラー!」と呼びかけられた。どうもアラブ圏では髪を伸ばしてる俊輔や名波よりも坊主頭の高原の人気が高いと見た。
それにしても不思議なのは、滅多に外で見かけないほど慎ましいはずのエジプト女性だが、そんな彼女達用の下着類が何のてらいもなしに店先に大量 に吊されているのはどうした訳なんだろうか。しかもそのどれもが派手派手で、サイズも異様にデカい。見ている方が恥ずかしくなってしまうが、エジプト人にとってはこれが当たり前のようだ。外ではいつもベールを深く被ってるから、おしゃれはインナーで、ということなんだろうか。またあるスパイス屋では親父がナイトライフに効くという怪しいスパイスをあからさまなボディ・ランゲージで売り込んでくる。どうもアラビアン・ナイトライフには、表面 からは窺えない深い秘密がありそうだ。などと比較文化学的な考察に頭を巡らせていると、少々疲れてきたのでスーク沿いの一軒のオープンエア・カフェに入った。東京のオープンエア・カフェと違うのは、そこでお茶をしているのが女の子同士じゃなくて、ヒゲ面 のオヤジ同士だという事と、客のほとんどがシーシャと呼ばれる水パイプをくゆらせている点だ。大の男が日中からヒマそうにたむろしているのは、エジプトに限らず暑い地方の国ではよく見る光景だが、エジプトのカフェはそんな彼等のまったりとした社交場なのだ。大体オープンエアと言っても、単に通 り側の壁が無いだけだし。しかしこのオヤジで溢れるタイル貼りの小さい店は、いかにもアラブの地元カフェって感じでカワイイ気がした。いかにもよそ者の視点だけど、きっと日本に来る外国人だって表参道のカフェよりは、商店街の焼鳥屋でナイター中継を見るほうが面 白いに違いない。
話はそれるが、エジプトでは男同士、女同士で手をつないだり、腕を組んで歩いているのが珍しくない。女同士はともかくヒゲ面 のオッサン二人が腕を絡ませてニコニコ歩いているのは、悪いけれども何か笑える。でも慣れてくると、何だかとっても仲が良さそうで羨ましくなってくる。そう、エジプトのオジサン達はとっても素直に友情を表現しているんだ。日本人が捕らわれがちな「恥ずかしい」という感情も、見方を変えればとってもつまんないものかもなぁ〜なんて思ったりもした。かといって例えば、今となりでシーシャを試しているこの末ちゃんと手をつないで東京の街を歩いたりしたら、まちがいなくアナザー・ワールドに連れてかれそうだが・・・。所詮僕は日本に生きる日本人、シーシャを飲んでエジプト人を気取っても咳き込むのが関の山だ(実際、咳き込んだ)。シャイとシーシャを飲み終わった僕等は、再び怪しい日本語の飛び交うスークを駅に向かって歩き出した。「バザールデゴザール!」、「ポッポッポーハトポッポー!」。何じゃそりゃ。
すっかり日が暮れて、薄暗いアスワン駅のホームで列車を待った。ルクソールまでは二等車で18ポンド、約4時間の旅だ。列車が来ると男が近づいてきて、席番号を聞いてくる。駅員かと思って何号車の何番だと言うと、勝手に僕等の荷物を掴んでスタスタと歩き出した。男は僕等が止めようとするのも聞かず強引に列車に乗り込んでしまうので、僕等はあせって追いかけた。席まで来ると荷物を網棚に放りあげ、満足げな顔でバクシーシを要求してきた。何か怪しいと思ったが、やはり駅員ではなかった。僕達は「頼んでもないのに、勝手に荷物を持っていったのだから金を払う気はない」と言い張り、列車も出てしまうので結局その男は金を諦めて車両を降りた。いきさつはどうあれ荷物を席まで運んでもらったのは事実だから幾ばくかでも払った方がよかったのだろうかとも思ったが、列車が出発して直ぐに、払わないで正解だったことが判った。あの偽ポーターが案内したのは僕達の切符に印刷された番号とは全く違う席だったのだ。まったくやり口が強引な上にテキトーと来ては、どうしようもない。僕達は何両か前方の本当の席に移動して、やっと一息ついた。 アスワン〜ルクソールの夜汽車の二等席は地元民と少数の外国人で満席だった。一人で大きな荷物を持ち込む行商人の様な連中もいて、駅に着くたびに荷物を下ろしたり、積み込んだりと騒々しい。僕と末ちゃんはしばらくお喋りをしていたが、そのうち二人とも眠り込んでしまった。
ひときわ騒々しい人と物の動く音に目を覚ますと、列車は何処かの駅に泊まっていた。時計を見るとまだルクソールに着く時間には早い。しかし大きい駅のようなので、念のため窓から外を凝視すると「LUXOR」という表示が見えた。エジプトの列車が予定より遅れることはあっても、まさか早く着くなんてあり得まいと思いこんでいたので面 食らった。慌てて末ちゃんを起こし、荷物を担いでホームに飛び降りた。もう夜遅い時間だったが、さすがに大きい街だけあって街灯が明るく、道を歩く人の数も多かった。ルクソール駅前には例の如くホテルの客引きが待ちかまえていたが、僕等も例によって事前にホテルの当てをつけておいたので、早足でそのホテルの方角へ一心不乱に歩き出し、彼等を置き去りにした。が、しばらく歩いているとその辺から12〜3歳くらいの男の子が現れて、しつこく別 のホテルの勧誘をしてきた。僕等はかなり疲れていたので、立ち止まらずに適当にあしらった。子供とは言え、ちょっとでも客引きの話を聞いてやろうなんていう余裕も愛想も無かった。すると立ち去る僕等の背後から男の子の苛立った捨て台詞が聞こえた。「ファック・ユー!」。できれば一日の最後には聞きたくない言葉だった。