〜 Egypt 〜

●2000年10月 エジプト旅行記

第四日目(其の二) “神の島”フィラエ神殿

  フィラエ神殿の島へ向かうボート乗り場に着くと、何隻ものボートが桟橋に繋がれていて、白いゆったりとした民族衣装からしなやかな黒い躯を覗かせたヌビア人の船頭たちが客引きをしている光景が目に入った。何人かの船頭と交渉したが、やはり観光地で商売する連中はカイロと大差なくそれなりにスレた感じだ。話が着いた船頭の船まで行ってみると20人は乗れそうな屋根付きボートだった。しかし客は僕と末ちゃんの二人きりで、しばらく待っても客は増えそうにもない。先程のタクシー運転手よりも更にアフリカ人っぽい容貌の船頭は不機嫌そうにその黒い顔をしかめながらしぶしぶ船を出した。ナイル川を渡る風が顔に当たり気持ちいい。今日も雲一つないいい天気だ。ていうか南部に来てからまだ一つも雲を見ていない気がする。宇宙まで透けて見えそうなほど澄んだブルーの空がひたすら頭上に広がっている。しばらく川面 を滑るようにボートが進んでいくと、前方に見えている島々の中のひときわ大きい島に巨大な建造物が視認できるようになった。あれが“神の島”、アギルキア島のフィラエ神殿だ。

  島の船着場に着いた僕等は船頭と帰りの待ち合わせ時間を決めて陸に上がった。ボートは往復契約なので帰りも同じ船に乗らなければ島から帰れなくなってしまうのだ。果 たして同じような格好をした居並ぶ船頭の中から彼を見分けることができるのか甚だ疑問だが、きっと彼の方で僕等を見つけてくれるだろう。これはアスワンに限った事じゃないが、どうもエジプトでは日本人旅行者はそれほど多くないようで、欧米の観光客が大勢を占める中では比較的目立つ存在だ。3年前のルクソールでのテロ事件が尾を引いているのかもしれない。入場料を払って神殿前の広場に入ると、立ち並ぶ列柱の向こうにモダンな感じのデザインをした神殿の門が、でーんとそびえ立っている。ちょうど観光客の人波の狭間だったのか、広場はほとんど無人で風の音しか聞こえない位 の静寂に包まれていた。まるで数千年前にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えたが、すぐに僕の背後から白人団体観光客の大波が容赦なく広場を蹂躙し、静謐な光景はいっきにスクランブル交差点のような賑わいに取って代わられてしまった。気を取り直してじっくり細部に眼を向けながらじりじりと門に向け歩を進めていった。この神殿はその状態の良さからも伺えるように比較的新しい時代(といっても紀元前)の建造物のようだが、周囲を水に囲まれているロケーションも手伝って、とても神秘的で特別 な雰囲気を持っている。エジプトは本当に素晴らしい遺跡の宝庫だ。

  この神殿は広くてアブ・シンベル神殿に比べ複雑な構造をしているので、僕と末ちゃんは別 れてそれぞれ好きなように見物して後で待ち合わせることにした。この神殿は長い年月に渡って増築を重ねたらしく、古い旅籠のような入り組んだ造りになっている。壁面 ばっかり見て歩いていると同じ場所に戻ってしまう事もあった。だが、それだけになんとなく統一感が無いというか、散漫な印象を与えるのもまた否めない。造形もアブ・シンベルに比べると型にはまった感じがして、ひとつひとつのインパクトに欠けるような感じがする。特にローマ帝国時代に建てられた「トラヤヌス帝のキオスク」などは一瞬、鉄筋コンクリ製かと思うくらい妙にモダンで趣がない。きっとこの神殿が造営されていた時代には既に神殿建築のデザインが確立していて、建築家達もそれを踏襲するだけになっていたんじゃないだろうか。何故かそう思わせるような“才気のなさ”を感じる。といってもここは文句なく“世界”レベルの遺跡なんだけど、ピラミッドやアブ・シンベルなど“銀河級”の遺跡を見た後では悲しいかなやはり見劣りしてしまうのだ。

  壁のレリーフを見ながら神殿の中をうろうろしていると、物陰から怪しいオッサンが手招きをしている。僕が怪訝な顔を向けると、「こっちの壁画はグッドだ、写 真を撮れ」と言う。胡散臭いと思いつつもオッサンのいる薄暗い小部屋に入り、どの辺が「グッド」なのか良く解らないレリーフをお義理で写 真に納めた。するとオッサンは「バクシーシ」と言って手を出してきた。おいおい、こちとら入場料を払ってんのに何でお前に更に撮影料を払わなきゃならないんだ。それともこのフィラエ神殿の肖像権はオッサンに属してるんかい、と詰問したくなったが、面 倒くさいので一言「NO!」と気迫を込めて断ってオッサンの小部屋を出た。オッサンは小部屋から出ようとはせず、うらめしそうに遠ざかる僕を見ていた。多分、彼は遺跡で何らかの下働きをしている人で、ツーリスト・ポリスに見つかるとまずいから、彼等の死角となる物陰でカモが通 りかかるのを待っているんだろう。バクシーシをせびる間も常に周囲をキョロキョロ窺う貧相な様子があわれを誘う。こういう輩がどの遺跡に必ず何人かいて、とても構っていられないという事を学習するのにそう時間はかからなかった。

  一通り神殿を見終わった僕は島の北端の辺りを散歩してみた。この辺りにはめぼしい建物は無く、観光客もほとんどいないので非常に静かだ。ナイル川に向かって建っているアーチ型の門の脇で、うたた寝をするツーリスト・ポリスが一人いた。ちょうど太陽は一番高い所にあり、建物の落とす影は残酷なほど小さい。その僅かな面 積の日陰に椅子を移動させ、気持ちよさそうに寝ている彼の背中を見ていると、暑さと遺跡見物による疲れが少し和らいだ気がした。ここは素晴らしい遺跡だし、もう二度と訪れることも無いかも知れないと思って、つい根を詰めて見物してしまったようだ。この暑さだし、遺跡を観る心も徐々に新鮮さを失って、真剣に観ているようで実は義務的に漫然と観ていた自分に気づいた。遺跡もいいけど、ときどきそこから目を離して気分転換する必要がありそうだ。仕事をサボッて昼寝をするツーリスト・ポリスの丸い背中は、何故だか僕をそんな気持ちにさせてくれた。

  そんなことを考えながら、ふとその彼の背中越しにナイル川に目をやると、変な形をした岩の塊の島があるのに気が付いた。変な話だが、実はこのフィラエ神殿において僕の印象に最も強く残っているのがこのへんてこりんなロック・アイランドだ。こんな偉大な遺跡を訪れておいて、それはないだろうとエジプト観光局に怒られるかも知れないけど、事実だからしょうがない。その岩は長い年月をかけて風食され、ひび割れた丸い岩が積み重なった巨大なケルンのようだった。日本では奇岩を祀る風習があるけど、もしかしたらこのアーチ門が丁度そのロック・アイランドを望むように建っているのは、同じような信仰心の表れかもしない。でもそういえばこのフィラエ神殿もアスワン・ハイダムの影響で元々建っていたフィラエ島から隣のアギルキア島に移築されたんだった。てことは建設当時、この門の向こうにあの岩は無かったってことになる。妄想があえなく潰えて少し残念だったけど、この奇岩が川面 から突き出している様子は、まるで手塚治虫のSFマンガに出てくる異星の光景のような(あるいはロビタが何体も並んでいるような)、とてもシュールレアリスティックで強烈な印象を僕に残してくれた。

  末ちゃんと無事落ち合い、船着場に向かった。路の脇の木陰で一人のエジプト人が絨毯を敷いてお祈りをしている。一日に5回あるというお祈りの時間なのだろう。僕はてっきりエジプトに来ればそこかしこでこういった光景が見られると思っていたのだけど、意外と屋外で祈りを捧げる人をあまり見かけなかった。イスラム教徒でもよほど敬虔な人でないと、やらないのかも知れない。無事僕等のボートを見つけだして、島を後にした。帰りはあの奇岩のそばを通 ったので嬉しかった。ボートは往き同様に軽快に水面を滑り、みるみる神殿の島影は遠くなっていった。さてこれからアスワン市街まで行って、腹ごしらえをした後、ルクソールへ向かう列車に乗らなくては。

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