●2000年10月 エジプト旅行記
第四日目(其の一) アスワンへ
早朝、僕らは眠た眼でけだるそうに部屋を出た。外はまだ昨晩部屋に戻った時と同じくらい暗い。夜のライトアップを見逃した僕等は、今度こそは見逃すまいと気合いを入れて起き、上着を着ても肌寒い夜明け前の空気の中を神殿に向かった。ライトアップはともかく、アブ・シンベルに泊まって朝日を浴びる神殿を見ないのはエジプトに来てピラミッドを見ないのと同じくらい間抜けだ。しかも今は10月下旬なのだ。アブ・シンベル神殿にまつわる事で移築の話と並んで有名なのは、秋分の日の朝日が神殿の入り口から真っ直ぐに入って一番奥の部屋のラムセス2世像を照らす、というものだ。移築されたことにより多少のズレはあるそうだが、古代のエジプト人の緻密な計算は現代でもその効果 を見ることができるのだ。残念ながら秋分の日をちょっと過ぎているが今日は10月28日、そう遠くない光景が見れるかもしれない。
しかし本当に寒い。砂漠地方では朝晩が冷えるとは聞いていたが、僕が日本から持ってきたのはナイロン製の薄手の上着だけだった。ファスナーを不格好なまでに首元まで引き上げて、襟をチャイナ・カラーの様に立てても朝の冷気が忍び込んでくる。神殿に着く頃にはだいぶ東の空が白んできた。真っ黒なナセル湖が次第に深い藍色に変わっていく直ぐ上で、空の縁がオレンジ色のグラデーションを帯び始めた。早朝にもかかわらず神殿の周りには日の出を見ようと既に30人くらいの観光客が集まっていて、もうすぐ顔を覗かせそうな太陽を待って寒さに身を固くしながら佇んでいる。僕らは神殿からやや離れた湖畔から待つことにした。古代エジプト人は日没と日の出をそれぞれ太陽神の死と復活だと考えていたそうで、神殿が東を向いているのも復活した太陽神を迎えようとする気持ちの表れなのかもしれない。しかし寒さに震えながら日の出を待っていると、そういった抽象的な意味でなく、早く太陽光を得て体温を上げたいという人間の原初的な願いが 細胞レベルで理解できてしまう。 さんざんじらされた末にとうとう太陽が東の湖岸から顔を出した。それは頼りないくらい小さくて、線香花火の最後の玉 のような朝日だった。しかし湖面に光の筋をパッと引き、神殿のファサードをピンクがかったオレンジに染め上げると、それまでブルー・フィルターを通 したようだった辺りの世界をあっと言う間に変えてしまった。刻々と変化するファサードの色に惹かれて僕は神殿に近づき、まるで焚き火にあたっているかのように照らされたラムセス2世の顔を見上げた。やはり朝の光は格別 だ。この時間でしか見られない角度の陰影や微妙な光の色合いが 、昨日は見せてもらえなかった神殿の別 の貌を照らし出している。寒い中、眠たい眼をこすって早起きした甲斐はあった。
朝日というのは不思議なもので、地平線からちょっと離れてしまえば光線は安定してしまい、微妙な色合いの変化はすぐに終わってしまう。まさに一瞬のページェントなのだ。先程まで神秘的な表情を見せていた4人のラムセス2世もすっかり普通 の昼間の貌に変わってしまっている。しかもファサードに気をとられている内に、果 たして神殿の奥の間に朝日が差し込んだのかチェックするのを忘れてしまった。僕等がようやく気づいて内部に入った時にはすでに太陽光線にかなりの角度がついてしまい、入り口から間もない辺りを照らしているだけだった。しかし、その光の当たる角度を見る限り、日の出の瞬間もおそらくそれほど奥までは差し込まなかったであろうことが推測できる。やはり1年の中で秋分の日の日の出の瞬間にだけ起こる“奇跡”なんだろう。 納得して外に出ると既にかなりの数の観光客が集まっていた。このぶんではおそらく秋分の日の神殿は、“奇跡”を確認するのもままならないほどの人出があるのではないだろうか。日光を充分に浴びて生き返った僕等は、次に寒さで増長された空腹感を満たすために何か胃袋に入れようとホテルに戻った。
ホテルをチェック・アウトし、パック・ツアーの客に紛れて空港行きのバスに乗り込んだ。飛行機の窓枠の中で小さくなっていく神殿に別 れを告げ、僕等は再びアスワン空港に降り立った。さてここで到着ロビーを出てタクシー運転手による勧誘攻撃に再び立ち向かわなければならない。例によってロビーでガイドブックを開き、今日の大体のコースを決めてタクシー料金の相場を調べる。アスワンの最大の見所はナイル川に浮かぶ島にあるフィラエ(イシス)神殿だ。この神殿もアブ・シンベル同様にアスワン・ハイダムの建設によって沈む運命だったが、隣の島に移築されたらしい。島まではボートに乗って行くので、とりあえずそのボート乗り場までタクシーで連れていってもらうことにした。僕等の予想に反してアスワンのタクシー運転手はカイロのそれに比べ良心的だった。カイロでの経験から心に鎧を着込んで戦いにでも挑むかのような態度で料金交渉をする僕等に、彼は辟易したような様子さえ窺われた。結局僕等が満足する範囲まで値切ることができたのだが、逆にこちらがアコギに思えるくらいアスワンの運ちゃんはスレていない印象だった。やはりどこの国でも地方の人間は首都の人間よりははるかに鷹揚なのかもしれない。タクシーもカイロの白黒セダンと違い、車によっててんでバラバラの色に塗られている。僕等の乗った車はワイン・レッドでリア・ウィンドウにコカ・コーラのでっかいシールが貼ってあった。運転手の彼は南部のヌビア人だそうだ。カイロのアラブ人よりも色が黒く、比較的黒人に近い容貌をしている。彼がカーステでかけている音楽もヌビア地方のポップスだそうだ。カイロの商店街でガンガン流れているアラブ風ポップスと比べて、もっと素朴でアフリカっぽいテイストを持っている気がする。彼の話を聞いているとヌビア人の民族意識がかなり高く、北のアラブ人とは一線を画しているように感じられた。
右手前方に変わった形をした塔が見えてきた。遠目にはコンクリート製の給水塔のようにも見えたが、その装飾的な形状から宗教的な雰囲気も感じられる。が、どちらにしろ遺跡といえるような古いものではなさそうだ。運転手は車を路肩に停めた。どうやら寄り道してこの塔を見物するようだ。彼が言うにはこの塔はアスワン・ハイダムの完成を記念して建てられた記念碑だそうだ。彼が警備員と話をつけてくれて、塔の敷地内に入ることができた。塔は5本の剣のように尖った外壁と、それらをリンクする空中の円環によって構成されている。外壁の内側は一見イスラム様式、よく見るとモダンな抽象的文様によって覆われている。5本のうちの1つには大きい掌が2つ描かれていて、掌の中に二人の髭をたくわえた人物の顔が、掌の下には二つの紋章が載せられている。掌にはそれぞれロシア語らしき一文と、アラビア語の一文が書き添えられている。当然どちらも読めないので何が書かれているのかわからないけど、人物の一人はどうやらナセル元大統領らしく、下の紋章は旧ソ連と旧東ドイツの国家紋章のようだ。これらから察するにきっとソ連と東独の協力によってナセル治世下でアスワン・ハイダムは完成された、とかなんとか書いてあるのだろう。二つとも既に消滅してしまった国だというのが何となく面 白い。立派な割に訪れる人のあまりいなそうなこの塔には、忘れられた希望、過ぎ去った栄光、みたいな言葉を連想させる寂しさがそこはかとなく漂っている。運転手が上のリング部分に登れるように警備員に掛け合ってくれたが、うまくいかなかった。上のリング部分には本来なら大統領しか登れないと言うので、当然と言えば当然か。それにしてもエジプト庶民のムバラク現大統領の評判はかなり悪いようだ。カイロのアフマドも悪口を言っていたが、アスワンのヌビア人である彼もムバラク大統領をかなり辛辣に批判していた。曰く、ムバラクは貧乏人には冷たい、富を独占して女性関係も乱れている、等々。そして決まって彼等が対称的に引き合いに出すのが故ナセル大統領だ。ナセルは偉大で貧しい者の味方だったと手放しの賞賛ぶりだ。近代エジプトの栄光の時代を体現したナセルは今もエジプトの人々の心に生き続けているようだ。
塔を後にして車に乗り込むと、すぐにアスワン・ハイダムが見えた。この巨大なダムの上を通 る道路を渡ってナイルの向こう岸に行くのだ。小学校の社会科の授業でこの巨大ダムの名を知った時はまさか自分がこのダムの上を通 ることになるとは思わなかったが、アスワン・ハイダムは昔思い描いていたような日本式ダムとは似ても似つかないものだった。日本のダムは山間部の谷を利用するため、水を堰き止める部分は急で高い崖のような壁状になっているが、ここは山地ではないので非常に緩い傾斜の、低くて幅の広い構造になっている。大規模な水力発電施設も併設されているので、知らなければダムじゃなくて発電所かと勘違いしてしまうかもしれない。車の中から僕がカメラを構えると、運転手があわててそれを制止した。ダムを撮影することは堅く禁じられているのだそうだ。なんでもテロを警戒してのことらしい。なるほど確かに先述したようにエジプトはナイル川沿いに広がる国家なので、もしこのダムを爆破でもすれば下流の都市部を洪水が襲い、一瞬で国家が機能不全に陥ってしまう危険がある。シンプルな構造の国土だけに、まさにこのダムは国家の急所とも言える最重要戦略ポイントなのだ。とは言え僕のような観光客にとっては、所詮あまり趣のないコンクリートの固まりに過ぎないのもまた事実だが。