井岡寺の歴史詳細. 詳しくお知りになりたい方は是非どうぞ(地図等画像あり)。
当井岡寺は、寺伝によれば西暦825年(天長2)淳和天皇、第三皇子基貞卿が高野山で修行 源楽と名を改め巡国の末、井岡を霊地と感じ天皇の勅願寺として、遠賀寺を開山したのに始まる。
記録としては当時のものは全くなく、延喜式に遠賀神社が、三代実録、醍醐寺資料等に瑜伽寺として散見されるにとどまる。なお醍醐寺末と思われるので当初から真言寺院であろう。 また、平安中期の十一面観音が残ることなどよりも、平安中期以前の創建であることは、疑いがない。
中世になっても、資料は殆どないが藤原の面影を残す不動明王、来迎形の勢至菩薩は地方でもまれな良い出来である。中尊阿弥陀如来は近世の修理で損なわれて、現在は薬師如来として奉られる。 建久年代に鎌倉殿祈願所、武藤氏の保護等あったともいうが、裏付ける資料はでてこない。
当寺に残るもっとも古い記録は、掛け仏(御正体)2面の銘文で、 以下
@大日本出羽大網
管領司武藤家宿老 時旦那武藤
渡辺四郎左エ門重吉
地主岡大権現御正殿
長禄二二年庚辰三月十八日(長禄四年=1496年)
執行別当遠賀廼井寺
山主沙彌 如海
A岡大権現御正体 大山祇命 (前文、日付同文)
また、後世江戸時代(1779)本地堂再建の際、塔の心柱が発掘されたが、これも中世以前のものであろう。
江戸時代になると最上義光の寄進があり、1612年(慶長17)総高172石5斗5升2合の黒印状(寄進状)が残っている。庄内では羽黒山、鳥海山に次ぐ高額である。当時の住職は及栄(ぎゅうえい)上人で、現在の井岡寺の基礎を作り上げた方である。(中興1世)庭園もその時代のものであり、枝垂れ桜も慶長年間京丸山より上人が移植したと伝えられる。
領主が最上家から酒井家に替わっても石高は変わらず、むしろ居城が近いため藩主、家族がよく参詣に遊山に立ち寄られた記録が散見され、そのおり使用された書院造りの上段の間、上上段の間が現存する(庫裏書院1794年)
江戸末期の井岡一山の堂社を挙げると、仏堂では、観音堂(本地堂、本堂)、護摩堂、庫裏、位牌堂、鐘楼、弁天堂、仁王門。末寺で、釈迦院、不退坊、円光坊、威徳院、大学坊、杖林坊、等。
社殿では、神門、拝殿、本社殿、神楽殿、直会殿。末社として、日枝神社、天満宮、住吉神社、八幡神社、春日神社、稲荷神社、皇太神社、疱瘡神社、等等が山内に林立していた。
明治になると神仏分離が実施され、またその直後火災にあい現時残るのは、寺で、護摩堂、庫裏、
神社で、拝殿(旧仁王門)石鳥居ぐらいのものである。明治後期安藤周慶(中興30世)が宝蔵改築、本堂(旧護摩堂)屋根瓦に葺き替え、大正昭和に開山堂再建、庫裏葺き替え(茅〜瓦)を成す。
昭和29年入山の大沢栄繕(同32世、現住)が、護摩堂、庫裏再度葺き替え、渡廊改築、仁王像修復、仁王門再建(1992年)等の事業を成し現在に至る。