「寺院縁起」題字:当時の庄内教区教区長 多治見 及賢 僧正
昭和59(1984)年、「寺院縁起」サブタイトル「真言宗智山派山形庄内教区寺院縁起」(宗祖弘法大師1150年御遠忌記念出版 発行:庄内智山青年会 当時の会長:吉村憲昭・勝福寺住職)で作成したもの本文のみそのままですので現住職など現在と変わっているものもあります。各寺院に五百字程度で原稿を依頼したものの様です。
なお現時点での追加情報は茶字で区分してあります。 < 目 次 >
寺籍番号、寺院名、住所、札所、電話番号、住職名、略縁起、年中行事、寺宝(名称、時代、文化財指定)
飽海郡遊佐町吹浦字丸岡148 荘内三十三観音札所 第21番
0234−77−2754 伊比 良円 松葉寺は、秋田県との境女鹿村の高台にあり、40余段の石段を登ると境内からは飛島を眼下に一望できる。
当山は今より約千年前の平安中期、万寿年間(1024〜28)乃善和尚の開創なり。本尊は不動明王であるが、神仏分離の為に神宮寺より遷された県文化指定なる等身大の旧鳥海山大権現本地仏の薬師如来と、月山神社本地仏の阿弥陀如来が有名である。その他荘内札所第二十一番霊場でもあり常に参拝者がある。
明治時代の戊辰の役に、秋田佐竹藩の決死隊によって寺及び村が焼かれ、多くの仏像、過去帳、宝物等を焼失したが現住職良円僧正の代に至り中興する。
ここ松葉寺には、嘉祥三年(850年)の大地震まで飛島を含み陸続きであった事を示す地図が複写保存されている。 旧道の県境に自覚大師を祭り、手長足長の難をのがれしも神仏分離に依り今は三崎神社となっている。三嶋県令の新道開発によって交通不便の難所がなくなりたるも、有耶無耶(うやむや)の関跡や、○○塚とかの伝説や名勝、旧跡などの縁起等も多い所であり、磯釣りの格好の場所として、亦庭石の産地としても良く知られている
紹介サイトhttp://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ 遊佐町/松葉寺 飽海郡遊佐町当山字上戸6
0234−72−2730 中興52世 藤原 及定 当山は、開基慈覚大師が大同元年(806年)薬師如来を勧請し本尊に安置し奉り創建されたものである。以来永享元年(1429)迄六百年の間、数度の火災にあい古記事等はない。永享元年四月八日、中興一世光上上人以降当五十二代迄の住職連綿は、その間五百五十年と続いている。(歴代住職名記録有り)
当山第九世秀海和尚、武州江戸・弥勒寺の法脈を相続し、以来該寺と本末関係を結ぶが、後年智積院直末となった年代は不明である。当山には衆徒六坊あり剣積寺が学頭である。明治三年の神仏分離令の公布に依り、それまで剣龍神社拝殿に安置されていた薬師如来は、現在剣積寺本堂に安置されており、特に眼病に霊験があるということから近郷近在の信仰が厚い仏である。
当山の御墨印高は三石六斗二升八合を最上義光公より拝領、その後酒井公入国後もその侭御据置きになり、酒井公代替わりの都度領内巡検の際は必ず当堂に参詣し、初穂金二百疋を献ぜられている。
尚、当山に関連する記事は「改訂・遊佐の歴史」(遊佐町史資料四・五号)及び「鳥海山信仰史」(松本良一・著 本の会発行)に詳しく掲載されているので参考にされたい。
大物忌神社の隣、桜並木の坂道を登り切った通称上寺(坂の上に寺があることから呼ぶ)にあり、傍らを県道杉沢線が走っている。
当山は大同二年(807年)慈照上人の開創で、以前は十一面観音を本尊として松岳山観音寺と称したが、明暦元年(1655年)以降本尊に鳥海山本地仏薬師如来を祭り鳥海山龍頭寺と改称、京都・醍醐三宝院御門主の直末で正法談林所となる。また鳥海山修験蕨岡口三十三坊の学頭別当としても勢力をもつにいたった。
領主酒井公の信仰を受け、禄二百七十石を賜り「丸に酢漿」の紋を許されているが、明治の神仏分離により寺宝・古記録の多くを失っている。 経蔵に黄檗版の「一切経」を祭る。これは中興開山深海法印が宇治の黄檗山から勧請したと伝えられている。法印は江戸・日暮里の浄光寺から来山、当山第五十世の法燈を継ぎ、醍醐三宝院とのつながりを密にして龍頭寺の地位を高め一山の教風を大いに宣揚した。さらに下大内に五十俵(五斗入れ)あがりの田地を自分で用意し、一切経を研究する僧侶が何年でもここにとどまって生活できるようにとしていた。・・延享四年(1747)十一月十日示寂・・
「密教大辞典」法蔵館・「大辞典」平凡社にそれぞれ龍頭寺の項がある。
紹介サイトhttp://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ 遊佐町/龍頭寺(庄内19) ここの遊佐町のページには、鳥海山山内の大泉房長屋門も載っています。最近国の重文になったはずですが、まだ町指定と紹介されています。説明看板の撰文はこのページの題字を書かれた多治見僧正です。 登録有形文化財(建築)本堂:天保15年、観音堂:明治8年、開山堂:昭和8年、 飽海郡八幡町草津字林下55
0234−66−4740 菊池及亮 八幡町上草津、鳥海山登山口の一合目より山手へ入り、二合目地点に当寺がある。この辺りは農村地帯で、東方に草津川の清流があり鳥海山山麓湯ノ台までは約四キロである。
また同地に湯本屋鉱泉旅館や鳥海荘、開拓部落等があり、近年になって道路も舗装され交通の便も大変良くなっている。 観行院の歴史については、正確に記録したものが現存しておらず不明であるが、過去帳を手がかりとすれば、約三百年位の寺歴と推察出来る。現在の本堂と庫裡は、昭和四十年に新築したものである。
寺の近くに平重盛の墓と言い伝えのある小型の五輪塔が二基並んでいる。但し文字が摩滅し、又何の記録もなく詳しいことは明らかでない。 当山の年中行事としては、三月二十一日に「御影供」(みえく)が行われるが、真言宗では宗祖弘法大師の影像をかかげて供養し、恩徳に報謝するために行う法会で、祥月の三月二十一日に勤修する「正御影供」と、毎月二十一日に勤修する「月並御影供」の二種類がある。
その他の年中行事として、二月三日の節分会、同月十五日のねはん会、五月の春祭り、十一月三十日には万霊回向会等が行われる。
酒田市生石字大森山164 荘内観音札所 第18番
0234−94−2361 中興28世 伊比 隆司 東山鷹尾山麓の大本坊山。怪岩や石碑の立つ急坂を登り切り山門内に入ると中世の遺石や板碑が立ち並ぶ。
当山は弘法大師の開山にして往古は往古は鷹尾山修験拝所表口別当所として繁栄をきわめて十八坊を有し、羽黒山を凌ぐ勢いであった。天喜年間(1053年)前九年の乱の際に源頼家公、当山及び十八坊に「大般若経」転読を命じて深く祈誓した。
以降、南北朝まで隆盛を極め、南北朝時代まで隆盛を極め、南朝勢力下の高度な都の仏教伝来により延命寺文化を確立するも、正平十年(1355年)藤島川の合戦に敗れた北畠顕信公、当山に潜伏した。その後北朝の統一に依り衰退するが、元亀元年(1570年)三月大日山長宗上人は荒廃した当峰に「微妙の霊場あり」と感得し白山権現の化身、白峰久治の案内で当寺に至り、観世音出現に肝涙、伽藍を建立して延命観世音を安置し奉る。
慶長十年(1606年)大日山及海上人、当山に移りて千辛万苦、再興をはかり伽藍を建立。同十五年聖観世音を勧請して弘法堅固、中興開山となり「生石山 介王院 延命寺」と号した。同じく慶長十七年六月四日、最上義光公より八幡神に寄進状を賜り江戸時代の平田郷十八カ所総祈願所となるに至る。
生石十八坊 大本坊 善勝坊 赤湯坊 若王院 介王坊 常光坊 応覚坊 中善坊 知亮坊 本明坊 円応坊 洞泉院 勝福坊 長久坊 長応坊 善行坊 長渕坊 酒田市境興野中ノ坪91
0234−94−2389 49世 中山 照弘 遙かに月山連邦を望むこの地は庄内平野の中の静かな農村にあり、酒田に二里、隣村の勝福寺へ十八町、延命寺へは一里程の道のりの所である。
金剛寺の起源は、建物等の焼失によりほとんどが不明であるが、一間ごとに柱が建っていて随分古い建物であり当時の苦労が偲ばれる。 門内には、板碑とその両側に石造の地蔵菩薩と観音菩薩が並び、その前には法充様の五輪塔がある。
当山第四十八世、故永清和尚が赴任して来たのは昭和十六(1941)年十一月。当時の総代の話によると、以前は金剛寺林と言ってうっそうと大木の繁った林だったらしい。そう言えばその頃、道路添いに大木の根が年を経てボロボロになって残っていたことを思い出す。
本堂前の大戸は八十年程も風雨から守ってくれた板戸であり、それには明治三十六(1903)年本間賢応代と大きく書かれている。賢応が何代目の住職か不明であるが、北海道へ行かれたとの伝もある。
酒田市上安田字竹ノ内22
0234−25−2740 33世 吉村 憲昭 酒田市街地から東方向に突き進む国道344号線(通称観音寺街道)の稲穂の美しい田園地帯を車窓に見ながら、およそ車で二十分の所に勝福寺のある上安田に到着する。本堂のすぐ前から広大な庄内平野が続き、この辺一帯は純農村地区であり近代水田の基盤整備が進み農作業も大型化・機械化になっている。
当寺は天正十九年(1591年)十二月二十八日、それまで隆盛を誇り庄内地方に一大勢力を持っていた鷹尾山宝蔵寺は、時の権力者上杉景勝に一山ことごとく没収され廃墟に帰した。その際山内の勝福坊は本尊と鷹尾山と記した宝印をたずさえてこの地に退転したと伝えられている。
その本尊阿弥陀如来は秘仏といわれ厨子の中に深くおさまり、一住職一代限り、もしくは六十年に一度のご開帳の時だけしかそのお姿を拝見することが出来ないと言われている。
現本堂は今から約二百年程前の建造物と推定され、老朽化がはなはだしい為に当山先住、及憲和尚は新本堂建立を一大事業として発願され、昭和六十一年秋の完成を目標に檀徒一同、一丸となって協力、大願成就ならんことを祈って現在に至っている。
酒田市庭田字正田44
0234−28−3254 24世 武田 憲昌 当山は、純農村地帯にあって鳥海山を望みいたって閑静、独居瞑想する場所として最適である。近くに国府跡、国分寺跡等々諸説の多い城輪柵跡が所在する。
創建年代等は不明であるが、中興開山は法印京意(俗名・阿部三郎衛門)であり、上人はもと豊臣秀吉の家臣であったが大坂落城後に逃れて高野山に登り、僧となって遍歴し、熊野三所に詣でて権現像を分霊し、胴巻きに入れて守護供養しながら当寺に至り、再興されている。本尊阿弥陀如来は明治の廃仏毀釈のとき売りに出されたものを海向寺の正海上人が購入して寄進されたものであり、男山八幡の御神体であったと言われている。
昭和二十七(1952)年本堂屋根改造以来、庫裡、開山堂、本堂等の増築工事を為し、昔の面影を偲ぶものも少なくなったが、伝えには境内に観音堂、阿弥陀堂、熊野権現堂、十王堂等の堂宇が在ったという。
今からさかのぼり、明治二十七(1894)年酒田大地震の際に旧本堂が倒れ、先住祐憲和尚二十五才の時に来住し、同三十(1897)年に再建したのが現本堂である。旧材を再利用した所から察するに、旧本堂は今よりも大きなものであっただろうと思われる。
酒田市亀ヶ崎町5丁目1−38 荘内三十三観音札所 番外
本多 実猛 昔は田園地帯の中にあったが、最近住宅地造成が進み民家が密集してきている。
慶長六年(1601年)酒田亀ヶ崎城に入った志村伊豆守光安が、山形にある長谷堂から捧持してきた観音像を、城内二の丸北角に鎮座した事に始まる。その後観音堂はこの地に移され、堂宇を建立して観音寺と称したが「鵜渡川原の総鎮守」と別称され特に漁師の信仰をあつめた。
元和八年(1622年)最上家改易ののちは寺も荒廃したが、酒井公の信仰によって昔の姿に復帰し、民衆の信仰を深めた。当時、本間家も信仰し大日如来像を寄進している。
本尊十一面観音は道元禅師(曹洞宗の開祖)が唐より帰国途中、観音の霊験によって救われたことにより、その報恩のために刻まれた一刀三礼の作で、道元禅師の守り本尊として秘蔵されたが、秀吉公が帰依してこれを城内に奉安しのち最上義光公に送られその後、家臣志村伊豆守に送られたと言い伝えられている。しかし、鵜渡河原大火で多くの記録を失ったため、現在これらを裏付ける資料はない。
尚、当山は庄内三十三観音札所及び百霊場のひとつに数えられている。
紹介サイトhttp://www.ic-net.or.jp/home/rinet/酒田市/観音寺(庄内番外) 酒田市中央東町4−50
0234−22−8044 42世 本多 慶俊 酒田の中心、繁華街に位置するこの辺りは古くから寺町と称され賑わいを見せている。仁王門をくぐると長い参道が本堂前まで続く。
龍厳寺は昔。法泉院と称して御室仁和寺の末寺で酒田は最上川の南、飯盛山の西に所在したものであって、当山中興の祖、宥遍上人は文明年間(約五百年前)の人である。
慶長六年(1601年)現在地に移転、しかし宝暦元年三月(1751年)焼失。その後本間光丘氏大施主として造立したが寛政十年(1798年)再び焼失。このとき藩主酒井家より米五十俵、桧材百本の寄進があったのは亀ヶ崎城主志村伊豆守の祈願所であった為である。また当時の龍厳寺住職は酒田寺院の筆頭として、年始登城のときには二の丸門まで乗り物をとおされ、黒書院において杯頂戴・御返杯の格式を持っていた。
境内に板碑があるが摩滅甚しく碑文を解読し得ない。しかし、この種の板碑の型は南北朝時代に流行したようである。天和三年(1683年)巡検使調書によれば、庄内三郡を通じての談義所は此の処一ヶ所であり、「真言宗酒田山談義所」と称して学問の中心地であった。
*「談義所」→各真言宗の僧が集まってお経の研究をした場所*
酒田市日吉町2−7−12
0234−22−4264 中興21世 伊藤 永恒 中町商店街通りから日和山公園をめざすと左に割烹小幡、向かって右側の坂道を登ると海向寺である。正門は七十七段の石段を上る日吉町二丁目(旧下台町)側である。
寺伝によれば今よりおよそ千百八十年前、弘法大師の開基と言われ、のち真然上人が弁財天を祭り一宇を建立したという言い伝えがある。 現在の場所に寺を構えたのは三百五十年程前で、湯殿山大権現(胎蔵界大日如来)を本尊とし、加持祈祷の道場として今日に至っている。
境内には権現作りの本堂を始め、湯殿山木食行者(忠海・円明海)両上人の即身仏を奉安する即身堂、粟島観音堂、鐘突堂、また参詣者の休息所としての海向寺菓庵がある。
当山は酒田市内を一望できる高台にあり。昔から月見の名所として「酒田十景」の一つに数えられており、昭和三十八(1963)年三月、酒田市教育委員会より名勝地の指定を受けている霊場である。
なお来 昭和六十(1985)年は湯殿山の御縁年にあたり、七月下旬に即身仏両上人の衣がえが行われ、古くなった衣は小さく小切れにし、開運・厄除けのお守りとして希望の信徒、参詣の方におわけする。
酒田市飛島字勝浦甲65
0234−95−2174 30世 進藤 慶深 飛島は酒田港から定期船「とびしま丸」で約二時間のところにあり、島全体が鳥海国定公園に指定され、対馬海流の影響により暖性の植物類が多く、夏に咲く「トビシマカンゾウ」や「岩百合」が知られており、小鳥類では「イソヒヨドリ」や「イワツバメ」、天然記念物に指定されている「ウミネコ」の大繁殖地として有名であり、また絶好の釣場としても人気がある。
円福院の開基については、寛永三年(1626年)酒田龍厳寺の報告書には、龍宝山慈光寺円福院、亮珍法印の開基で、檀家六十七軒と記されている。しかし当山の過去帳によると亮珍法印、天文十二年(1543年)の開基で享和三年(1803年)の秋に火災にあい、文政三年(1820年)四月及学法印の代に再建されたとあるが、寺歴についての確かな記録は残っていない。
飛島は北東の浜に法木、南東の浜に勝浦・中村の三つの集落がある。勝浦・中村は船着場として栄え、法木は他の二村よりも先に出来た所と言われ、古い風習が残っている。古来から飛島湾は相当の水深が保たれており、西風や東南風を防ぎ得ることが出来た為、日本海に於ける沖乗航路の中継港・避難港として重視され、また北海道通いの帆船の寄港地であった。
酒田市法木字高森246
34世 進藤 慶深 多宝寺は寛永十三年(1636年)に勝浦円福院の分家寺として建立されたとの説がある。しかし、当山も火災により旧記を失っている為寺歴はほとんど不明である。
ここに飛島に伝わる「うらぼん」について少し説明する。 お盆が近づくと島の人々は墓の掃除をして寺に“ほとけ(塔婆)”をお金や米で受けに来る。十三日になると門前に灯籠柱を立てて餅をつき、灯籠の張り替えを行い、午後三時頃に家の主人は灯籠に明かりを入れ、浜の水際で迎え火をたきながら沖に向かって「お精霊様この火の明かりで来とーね」と叫んで先祖の霊を迎える。そして灯籠を担いで門前にある灯籠柱に掛け、その脇には茶碗に水を盛って中に萩の小枝を入れる。これは精霊が出入りする度に手水を使うという言い伝えからである。そして、十六日には“ほとけ”をはじめ供物や飾り物を精霊菰に包んで昆布で結び主人がこれを浜に持ち出して海へ流して送り火をたき、「御精霊様この火の明かりで送りとーね」と繰り返し言いながら、先祖の霊を送り出すのである。
お盆は島での最大級の行事でありながら、時代の流れと共に様々な風習も簡略化されてきたことは言うまでもない。(参考「飛島誌」国書刊行会)
東田川郡立川町狩川字山崎102 0234−56−2732 10世 橘 良順 狩川の町から羽黒山方面へ向かう道路を約二キロメートル程行った所に山崎の村落があり、まもなく左手に西光寺勢至観音堂の屋根が見えてくる。
境内に入るとすぐ右側に、湯殿山行者であった蓮海上人・徳温上人・蔵運上人の各石碑が立ち並んでおり、ここから少し上に登ると右側に本堂と庫裡があり、五十の石段を登ると勢至観音堂にたどり着く。このお堂の屋根は最近改修されたもので立派な姿となっている。
当山は、文政八年(1825年)五月、湯殿山行者・鉄門海上人が信徒の浄財を得て開創したものであり、弘化三年(1846年)には酒井家の眼病祈願所として御状を賜り、恵眼の本尊として崇敬された。
鉄門海上人が眼病祈願の為左目をくりぬいた話は有名である。少し詳細すれば、文政四年(1821年)に自分自身で抜き取った左目を、江戸両国橋から隅田川に投じて当時流行性眼病に悩む江戸庶民のために隅田川の龍神に悪病退散の祈願をしたと言う伝説がある。また、社会事業の功績も大きく文化九年(1812年)に大山から加茂の港へぬける加茂坂の第一期開削を行った人でもある。
東田川郡櫛引町黒川字宮田9 荘内三十三観音札所 第 7番
0235−57−2492 山科 芳一 黒川能で知られる春日神社の麓にかまえ、遠く王朝時代の開創と言われ、春日四所大明神の別当職を勤めていた。
慶長十七年(1613年)最上義光公より黒印状を寄進され、朝夕顕密の秘法を修め、その祈念一日も欠けることなく今日に至っている。 最上公はもとより、武藤・酒井公の祈願所として由緒ある寺であり、なお当寺は羽黒山荒沢寺の住職であった東水和尚が創始したものと言われている。
古くから出羽の国庄内三十三番札所の一寺院として多くの信者の参詣を集めたもので、酒井家の祈願所であった為に一時中止したが、昭和になってから庄内札所第七番として再び西国の札所観音を勧請し、霊験に浴している。
ここで、重要無形民族文化財の指定を受けている黒川能について少し記すと起源は室町時代にさかのぼり、当時天皇であった後小松天皇の第三皇子・小川宮が出羽国にのがれてこの黒川の地に安住し、その供奉の人たちが村人に伝授したのが始まりと伝えられている。神事能としてもっとも盛大に奉納されるのは「王祇祭」(別名豆腐まつり)で、上座・下座に分かれて各々の当屋で盛大に行われている。
鶴岡市大字中山丁20
榎本 雅彦 杉木立の中の石段を二百段ほど登った山の中腹の台地に本堂・開山堂(位牌堂)・庫裡・稲荷堂の堂宇が建てられている。境内より遠くには鳥海山の姿を拝すことが出来る。
そもそも当寺は、今より四百年以前の永禄年間(1558〜70年・室町時代)京都御室御所仁和寺の末寺として円融上人が開創、本尊不動明王は慧心僧都の作と伝えられる。大日道より移座した金剛界大日如来、虚空蔵山から移座した虚空蔵菩薩等が祭られている。
最初は三瀬表の参台の岡の上に建てられたが、場所柄あまりにも風当たりが強く又、水の便も思わしくない為第八世周憲和尚が現在地に移転した、その後酒井公藩主となり庄内へ入部するやその祈願所となり、公鷹狩りの際にはしばしば休憩したと伝えられている。
また幾星霜の時を経て現在に至るに、本堂の老朽化と傾斜甚だしく崩壊の危険あるを憂い改築することを発願し檀徒一丸となり協力、昭和五四年秋立派に完成した。翌四月、教区寺院大徳方の御出仕のもと落成式を厳修した。
近年旧市内の青少年の教化場所として夏休みに森林浴を兼ね、研修合宿にも活用している。
鶴岡市大字矢引甲145 0235−35−3088 42世 小松 慶運 山門は桃山時代に建造されたものであり、当寺の本堂は元禄六年(1693年)建立、総檜造りで材木は南部地方(青森県)より海上筏で搬んで来たものと伝えられている。
廊下の欄間には太公望の魚釣りの図を始め、多数の彫刻を以て飾られ、内部は平家物語にある熊谷直実と平敦盛との出会いの祭の名場面を描いたもの等、ことごとく障壁画を以て彩られている。
また、本堂の中仕切りの扉が十二枚あり、裏表二十四面に中国の二十四考が描かれている。他に宝物として釈迦涅槃図像の大幅や地獄絵図十幅等が現存している。
山門より奥の院に到る参道は、高野山の不動坂をまねて造成したもので、まわりにある多数の石仏は鎌倉時代のものと言われている。昔から高野山に参拝できない人はこの寺をおまいりすることにより同等の御利益と功徳があると言われて来たものであるが、交通の不便だった時代の念願の顕われである。
文殊堂の本尊・木造文殊菩薩は御丈一尺二寸、義経・弁慶主従が東北へ落ち延びた時背負って来たもので、弁慶の作と伝えられている。毎年四月二十五日の文殊菩薩の祭典には多数の信者が集まり賑わっている。
鶴岡市内より湯田川街道の番田を過ぎると左手に鶴岡高専の近代建築、右手に陸の江ノ島と称されるこんもり繁った丘陵が井岡山である。その杉林を背景に井岡寺が建っており、山門を通ると本堂、その右側に大きな庫院がある。
寺記によれば天長二(825)年 淳和天皇第三皇子・基貞卿が高野山で修行の後、名を源楽と改め諸国を行脚の末、井岡の地に天皇の勅願所として阿迦井坊遠賀廼井山井岡寺を開山し、同時に岡山の伊波手山にあった大山祇神を奉遷してその守護神としたことから始まる。七堂伽藍は広壮華麗をきわめ、当寺州中の巨藍として「出羽高野」と称された。
治暦年中(藤原時代)に焼失してその後百二十年も復旧されなかったが、建仁三年(1203年)領主武藤家の信仰厚く鎌倉幕府の祈願所として庄田が寄進され再建をみた。その後永禄年中の兵火により再び焼失したが、その時の領主最上義光公により再建されさらに慶長の末、及栄上人(中興一世)が寺領百七十二石余の黒印を受けて一大整備を図り、以降明治維新に到るまで藩主酒井公の信仰厚く隆盛をきわめたが、神仏分離及び明治十一(1878)年の火災による堂宇の焼失、同三十七(1904)年には仁王門が拝殿として改築するなど、その姿を変え現在に至る。
鶴岡市大字寺田丁199 大沢 榮繕 鶴岡市街地より旧七号線(温海街道)を西へ一キロメートル入ると寺田部落で、その中央より左へ折れて約三十メートル程行った所の右側に六所神社、その右側に円蔵院がある。
六所神社は円蔵院の奥の院にあたり、元享二年(1322年)に月山の尊霊を遷座したと伝えられている。 円蔵院の創建は崇神天皇時代ともいわれているが、中興の祖は妙真といい、高野山で修行をしたのち、大日坊(東田川郡朝日村大網)の随身和上の弟子となり、明和七年(1770年)三月に当、円蔵院を建立したものである。
その後、三谷生まれの弘隆海は湯殿山で護摩修行をしたのち、円蔵院に来山して享和二年(1802年)八月に再建したものと伝えられている。藩政時代の記録には円蔵院総高九石五斗二升四合三勺と弘海記に残されている。
堂内に修められている仏像について記すと、一番古いもので鎌倉中期の作といわれている銅製阿弥陀如来像があり、木造地蔵菩薩は室町時代、御丈一尺の金銅製薬師如来は江戸元禄期の作と伝えられている。
なお、薬師堂は現在神社になっているが、かつては羽黒三山よりも繁栄したと伝えられている。
鶴岡市砂田町3−6 荘内三十三観音札所 第29番
0235−23−5054 11世 榎本 雅彦 当寺は湯殿山表口別当、注連寺の末寺にして御行寺と呼ばれ、湯殿山修行所・祈祷所として開創された。今日まで何度もの火災に遭って開創年月は不明である。
昭和三十一(1956)年隣家よりの飛火により全山ことごとく灰燼と化した。その後二十年間、無住廃寺同様の姿であったが、現住職当山の兼務を拝命するやこの状態を憂い、何としてもこの鶴岡の中心に智山の火を燈ずべく再興を決意、 先ず従来の地に於いては将来の発展を望み得ず新地移転、当時農地であった現在地をトとして昭和四十八(1973)年本堂(護摩堂)建立、その後廊下・庫裡増築、墓地開設、位牌堂・広間建立、客間増築、境内参道整備、境内地拡張、駐車場の整備等、漸く十年にして山容を整えつつある所であるが、二十年の空白の重さを感じつつ今後如何にして発展させてゆかねばならぬか模索している所である。 尚、荘内札所二十九番、旧七日町在所の観音堂はそもそも同派・清水山柳福寺と称し、酒井公祈願所として建立、その後火災により全焼し明治二十六(1893)年再建されるも維持困難となり、明治四十二(1909)年当寺に合併し、昭和十五(1940)年三月三十一日南岳寺観音堂として当寺に編入したものである。
紹介サイトhttp://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ 鶴岡市/南岳寺(長南年恵霊堂)へ 公式サイトhttp://www7.plala.or.jp/nangakuji/index.html
鶴岡市湯野浜笹立1−79遊佐町
橋本 照稔 奥羽三楽郷の一つに数えられている日本海に面した湯野浜温泉街の南、ホテル満光園の向かい側にあたり、笹立山の中腹に位置する。
その昔は、湯治場である新湯を経由して大山の善法寺へ抜ける主要道として栄えたが、今は新道が開設された為に利用する人はいない。 この辺り一帯は、桜の名所として公園化されまたすぐ隣には湯野浜ゴルフ場などがありここから望む霊峰鳥海山や、眼下に広がる日本海の壮大な眺めと落日の光景はたいへん素晴らしい。
そもそも当山の本尊不動明王は、千葉県にある真言宗智山派大本山・成田山新勝寺より昭和三十一(1956)年七月三十一日に御分霊を勧請したもので、笹立不動として地元の人達からも親しまれ広く信仰を集めた。
尚、当寺は昭和四十九(1974)年十一月の火災により、本堂をはじめことごとく焼失してしまい再建されないまま現在に至っている。しかし近年再建の気運が高まり、笹立不動再建に向けて関係者が努力中である。
今後、湯野浜から由良方面に続く海岸道路の整備やまた庄内空港の早期設立の問題は、観光温泉街湯野浜の発展に大きな役割を果たすのみならず、広く庄内地域住民にとっても期待は大きく、実現が待たれるのである。
22.椙尾山 地蔵院 (昭和59年には智山派ではなかったのです) 地蔵院とランバオウの物語 鶴岡市馬町字琵琶川原97 荘内三十三観音札所 第 8番
大沢 榮繕 地蔵院の歴史は詳しくは判りません。最上氏の黒印状で見る限り椙尾神社関係の他の坊と一山を組織していた様です。 椙尾大明神総額170.522石の内4.73石を地蔵院が受け取っています。 その後過去帳によると、 宗慶 寛文7(1667)年寂。 宥応 明和6(1769)同 宥明 店名2(1780)同 宗長 寛政5(1793)同 慰穏 文化1(1805)同 慶明 天保6(1837)同 保順 明治11(1878)同 正順 明治18(1885)同 晃順 昭和 とあり、その後現在も無住になっています。 多少断続的ではありますがほぼ時代を追って住職は継続した様です。 この間「信女」や「童子」などの戒名が入っていますので 妻帯の寺だったようです。 坊院の主宰者は半僧半俗、妻帯の事もよくあります。 また、大山庄大夫事件の時に檄文を書いたのが「 」という馬町の修験だったというのが、丁度 慶明から保順の間が空き過ぎなので気になっていたのですが。名前の関連から何かありそうな気がします。 現在の本堂は明治期に高橋兼吉が建てたとも、高橋権吉が建てたとも云われていますが、建物はエゾマツで天井板は桑の木を使用していると伝えられています。また本尊は地蔵菩薩ですが、茶の木を刻んだものとも云われます。 紹介サイトhttp://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ 鶴岡市/地蔵院(庄内8)から 椙尾山一山 菅原大和守家旧記より 欽明天皇壬戊(542)年小物忌神社として草創。現在地へ養老三(719)年遷座、その後武藤義郷が社殿造営.正保二(1644)年焼失。 正法寺前山本仁左衛門家は武藤氏の家老職家であった。
東田川郡朝日村大字中代92 荘内三十三観音札所 第31番
0235−54−6536 詳細はこちらへ、注連寺さん公式HPhttp://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/index.html
新山 龍覚寺 (豊山派、何かと縁のあるお寺です。平成16年三十三回忌をした龍覚寺さん先代住職(私の祖父「岸井則惠」中僧正)の撰。) 一千余年前の羽黒山は、峨々たる剣山であって、老幼婦女の登山には適しないのでその礼拝所として
鶴岡城下の一隅三曲輪南側に一宇を建立して、羽黒山の御分身である正観世音菩薩を勧請して龍覚寺と 命名して一般信者の奠(尊?)信も厚く、当時の大名の命によって浜中街道に移転したが、更に三転して
慶長一七年に高畑堤上(現泉町)に移され、元和八年酒井忠勝公御入国の時にお城の鬼門に当たる 祈願所として特別の思召によって、御祈願に指定されたので、一躍酒井藩筆頭の地位を占め禄高百五十石を
賜り三百年間その地位を保ち、本奠(尊?)大聖不動明王を安置し奉り、更に又正観世音菩薩を本尊として安置されて居る。 |