柳原白蓮


「大正ロマン」特別な時代背景の中、美人の誉れ高い白蓮が別府の地で過ごした思い。

白蓮と別府

柳原白蓮は華族の生まれで、美貌の歌人として知られる。生涯、文学の世界に自らの居場所を求め続け、波乱万丈の人生を送ったのです。
 16歳の時、親が取り決めた相手と結婚した白蓮は、一児をもうけながらも22歳で離婚し、母親の隠居所で読書にふけり古典に親しみました。
 24歳で女学校に入り佐々木信綱に師事。このころから本格的に短歌の創作に打ち込むようになります。
 27歳で、25歳年上の炭鉱で財をなした九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と二度目の結婚をします。伊藤家の「財力」と華族の「名」を得たいため双方の思いが合致しての政略結婚、10年間の結婚生活は経済的には恵まれたものの、夫婦仲は結婚当初から破綻しており、その満たされない心の空洞を埋めるように、ひたすら短歌の世界に没頭していきました。
 明治末から「心の花」に作品を発表し始めた白蓮は、大正4年に第一歌集「踏繪」を刊行し、歌の世界で頭角を現すようになります。大正8年には、詩集「几帳のかげ」と歌集「幻の華」を出版。「幻の華」の表紙は、当時交遊のあった竹久夢二が飾り、白蓮は自らの思いの丈を歌に託し、情熱的な歌を次々と世に送り出していきました。

36歳の時、7歳年下の東大法学部の学生、宮崎竜介の恋に走った白蓮は、この『白蓮事件』によりさまざまな中傷を受け、後に華族を除籍されることとなります。しかし、竜介との間に二児をもうけ、81歳で竜介にみとられ没するまで、幸福に暮らしました。



別府アリーナ近くの「赤胴御殿」
跡地に建つ歌碑
わたつ海の沖に火もゆる火の国に  
         吾あり誰そや思われ人は

赤銅御殿の一部
現在は公園となっている。

赤銅御殿

 屋根を貴重な銅板で葺いた当時では非常に高価な作りをしていた住まい。白蓮が竜介と初めて会ったのがその「赤銅御殿」。大正9年のことで、「解放」に掲載されていた白蓮の戯曲「指蔓外道」の単行本化の打ち合わせのためでした。
 この後、この「赤銅御殿」は、幾度かの変遷を経て昭和54年に解体されましたが、5000坪の広大な庭に池をめぐらし、調度品は京都から取り寄せたもので、扉には著名な画伯の絵が施されるなど、贅をつくしたものでした。「赤銅御殿」は、あたりの景観とあいまってしっとりと美しく、白蓮は頻繁に別府を訪れていました。福岡の家も同じく「赤銅御殿」称されていました。


トランプの訳


  白蓮は宮崎竜介と700通あまりの手紙を交換したとされています。当時の郵便事情を考えると、行方不明になり配達されなかったもの、配達が前後され到着の順序が変わったものなど、どの手紙の返事かも分かり辛いこともあり、手紙の中にトランプのカードをハートのエースから順番に同封するようになります。そのカードが同封されて返信されるわけです。
開封しトランプのカードを確認して、竜介に思いを寄せる白蓮はどのような思いで手紙を読んだのでしょうか。

銘菓「白蓮」


 

「幻の華 白蓮」

      別府菓子組合 白蓮会創作  別府銘菓 「幻の華 白蓮」

平成2年10月、別府市菓子組合が別府市を代表する誇れる銘菓造りを決議

平成5年、 銘菓命名にあたり別府市の歴史・文化に由来するものとして「大正の恋」といわれる美貌の歌人柳原白蓮(1885~1967)皇室出身の白蓮の名前に決定、大正時代に多くの歌人が別府市街(流れ川通り)にこられ交流を深めたといわれてます。当時の流れ川通りはビリケン、サロンと大正時代の和と洋の融合された町並みであった そんな別府市街地と情熱の歌人白蓮の出版本「幻の華」の名前を使い大正浪漫、別府銘菓「幻の華 白蓮」に決まりました。

平成6年4月15日、「幻の華 白蓮」 販売開始。
洋菓子のヅッグワーズ生地にごまを加え餡を挟み、和と洋の融合と気品あるお菓子が生まれました。


別府市菓子組合より


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