久光島伝説


瓜生島伝説は知ってる方も多いのではないかと思われますが、久光島・・・・・。別府湾には瓜生島以外にも島が存在したのか。


瓜生島伝説とは

その昔、別府湾には瓜生島、大久光島、小久光島、東住吉島、松島などの島々が存在しました。瓜生島は貿易港として大変にぎわったとされています。
島には古老たちによって古くからの言い伝えが残っていました。それは「瓜生島に住む人々は仲良くしなければならない。一人でも仲たがいをする者があれば、島じゅうの神仏の怒りにふれ、そのあらわれとして、蛭子社の神将の顔が真っ赤になる」というものです。島民の若者が「そんな言い伝えなど気にすることはないと、天変地異など起こるはずがない、おれが試してやろう」と蛭子社の神将の顔を真っ赤に塗ったのです。島の人々はそれを見て「大変なことをしてしまったものだ、何か異変が起こらねば」と気をもんでいました。
翌月から地震や火山の噴火が起こり、ついに高波にのまれて沈んだ島となりました。


久光村は存在した

中世の古文書に朝見郷には弁分・末松・倉光・節丸・花藤・末光の六つの「名」が現れる。
また、大友改易後、速見郡を領有していた細川家の代官、松井康之の文章にも別府村に久光の地名が残っている。久光という地名は存在したが、どこにあったかが定かではない。半島とも島ともいわれる。瓜生島は1596年の慶長豊後大地震で没し、久光島は1598年の大雨による鶴見岳の土石流で流没と言われています。

  「名」
 徴税の基礎単位、この場合「村とみる。

  「弁分」 
 別府の起こりとされる地名。朝見郷にも石垣荘にもあり、領地の境が不明で同一地域かも。

久光絵図




幸松絵図
久光村が半島としてえがかれている


仙玉絵図
大久光島・小久光島と描かれている。

なぜ久光島か

陸地で少し盛り上がった地形、畠地(微高地)を島と呼ぶことがある。地名にも「島」が付く地名も数多い。久光村も陸化していても「久光島」と呼ばれていた可能性はある。
ただ、仙玉絵図や古文書には大久光・小久光の両村の名前が出たり島の可能性も捨てがたい。
また、中世の文書からは別府村に久光の名が出てきます。ただ、当時の別府村は石垣荘であるので朝見郷の久光村との関係は、領地の変遷で存在した場所は不明。
幸松絵図の久光村は朝見川下流から現、北浜あたりまで伸びている。
仙玉絵図の久光島も位置はほぼ同じ。




沈島伝説 土屋北彦「大分の民話」より

海門寺

北浜にある海門寺、旧は久光島にあったとされています。
島が無くなった後、寺のご本尊である毘沙門天のお地蔵様が現在の的ケ浜に漂着し、感銘を受けた人々が建立したのが現在の海門寺になったそうです。
この後、厄除けの寺として親しまれ1931年(昭和6年)同公園となりました。


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