石垣原の戦

1196(建久7年)豊後守護職となり、1587年(天正15年)戸次川の戦いでの不信と1593年(文禄2年)文禄の役の失態で改易となるまで400年、豊後を支配していた大友家、秀吉の死後、東西に分かれての権力争いの中、西軍の、豊後安堵の言葉に、お家再興を願い豊後へ下向。大友家22代、大友義統の思い。 

大友家改易への道

九州での覇権をめぐり、薩摩の侵攻を自力で防げない大友家は秀吉により派遣された四国勢の助けをかり戦った「戸次川の戦い」で不明懦弱の評価を受ける義統は自らが動かず、四国勢の独断的な戦いと相まって大敗、秀吉の信頼を失う。
続く朝鮮出兵の文禄の役では、小西行長の救援要請に応えず援軍を出さなかったことで秀吉の怒りをかい改易となる。援軍は他の武将にも出されたが義統だけがとがめられたのは、戸次川の戦いでの評価と合わされたもので、恩賞地確保の狙いもあったものとされる。
   不明懦弱
  識見状況判断に欠け弱々しく臆病 『九州諸家盛衰記』


改易後の豊後情勢

改易後の豊後の情勢は、中立的な岡城の(中川家)・高田城の(竹中家)、西軍の佐伯城の(毛利家)・臼杵城の(大田家)・・富来城の(垣見家)・安岐城の(熊谷家)・府内城の(早川家)などの大名のほか、丹後の細川家が飛び地として杵築城を預かっていた。
大友義統は毛利家預かりの後、赦免されて流浪のみとなる。
   細川飛び地
 前田利長の謀反の噂の中、縁者の細川忠興が疑いを受けるが誠意を示し家康から評価され「大阪の台所料」として加増された。


豊後下向と如水始動

義統の長男「義乗」は徳川に世話になっていたことから東軍につくと思われていたが「秀頼公の豊後一国安堵、豊後下向に際し、武具・軍資金・軍船・援兵をよういする」との言葉に二男「長熊丸」を人質に西軍につく。1600年8月(慶長5年)大阪を離れ周防をへて国東半島沿いに南下、9月9日別府浜(浜脇)に上陸。直ちに立石に陣を置く。
一方、中津城の如水は隠居の身として、東軍に従って出兵していた黒田長政の留守を守っていた。多くの兵は長政と出兵のため、義統豊後帰参の報に蓄財をはたいて浪人を集め、八千ともいわれる軍を作り上げた。



豊後下向に際し旧家臣からも東軍参加の声も聞き入れず周防で合流した吉弘統幸や岡藩の与力となっていた宗像掃部・田原紹忍ら旧家臣が集結。この時田原紹忍が無断で持ち出した中川家の旗印を大友軍に掲げたことがその後大きな問題となり汚名を晴らすため、中川家と臼杵の太田家との「佐賀ノ関の戦い」となる。

杵築城攻め

細川の飛び地である杵築(付)城は毛利輝元・宇喜多秀家により明け渡しの要求が臼杵主のの太田一吉の子、一成を介して行われていた。城を守る松井康之はこれを拒否、旧領主、義統の立石布陣の報を聞くと、近隣の地主ら200名を人質に立てこもる。
大友側は9月10日、吉弘統幸を大将に杵築城を攻めるが黒田側の援軍が迫ってくることから撤退。

石垣原の戦いの位置



大友側より黒田軍陣所を望む(約2.2Km)


直線距離と激戦区域


左翼 宗像掃部・田原紹忍の陣    本陣 大友義統の陣    右翼 吉弘統幸の陣

石垣原の戦


撤退した大友軍を追うように、杵築勢、黒田勢、宇佐の時枝勢などが別府の実相寺山近くに布陣。9月13日の決戦へと進む。戦いは七度の掛合いが行われたと記録にあります。
戦力に劣る大友勢はよく検討したが大友義統の降伏で戦いは終了。長男の義乗が高家として家名を存続させる。

忠義一途の吉弘統幸の戦い前夜の一句

 「あすは誰が草むす屍照らすらん
         石垣原の今日の目影」


七つ石温泉にある統幸最後の地といわれる大石



古戦場碑



「合戦の図」複製品

『石垣原合戦覚」より』

番掛 大友屋形より新参の弐頭、如水より時枝・久野二頭掛合久野治左衛門、名有侍の首二つ取り相残の勢は切払其外双方打死
二番掛 屋形より宗像掃部、如水より久野治左衛門掛合、久野勢は三百騎に余る、上下不残打死・掃部勝利に候事
三番掛 屋形方より宗像掃部・都甲兵部・如水方より栗山大膳・表太兵衛・松井佐渡守双方掛合、宗像・都甲討被成候
四番掛 大友方より侍は不残、如水方は竹中伊豆守、其勢七百余騎、松井佐渡守勢五百余騎、都合千二百余騎入違戦けり、屋形方弐百余騎余り、如水方参百七拾余騎討死也
五番掛 屋形方より侍不残、黒田方野村・竹中掛合、如水方大勢討死也
六番掛 双方不残掛合討死多し
七番掛 吉弘統幸力戦いに一度もはずれず無勢故、殊の外働有といえども、右のごとくついに討死。
この掛合で吉弘統幸力尽き戦死、『石垣原合戦之次第覚』には
命を助けらんと思えば武士道にあらず、戦場にて討死するは後世の誉れなり、名を惜しむものは一寸も引かず・以下
略。

大友義統の思い

義統の長男「義乗」は徳川に世話になっていたことから東軍につくと思われていたが400年間、豊後を支配していた大友家秀吉の改易で領国を失い「豊後一国安堵」の言葉に、二男「長熊丸」を人質に西軍につく。不明懦弱の評価を受ける義統の思いはいかなるものか。
 双方に人質をとられ『どちらかが残る』の説もありますが、このときの義統は父、大友宗麟への思いを背負い、豊後・九州の覇者としての大友家と自身の名誉挽回を期していたのでは、しかしながら多くの家臣を失った敗戦後の義統は降伏し髪を剃り黒田側へおもむきます。説得を聞かず独断で西軍に味方し、勝負が決したちこの行動は旧家臣の思いを無にしたもので「不明懦弱」の汚名を晴らせないままで戦いは終結とます。大分県にはゆかりの深い大友家、この後は、
高家 江戸幕府における儀式や典礼を司る役職として徳川の世を過ごします。


加藤清正と旗の台


別府ロープウェイから、少し県道を上がったところに「旗の台」があります。
黒田如水の盟友、加藤清正は「関ヶ原の戦」時は九州におり、西軍の動きを監視していた。「石垣原の戦」に際し援軍を派遣、本隊は阿蘇・内牧あたりあったころ先遣隊が到着すでにこの時、勝敗が決しており、ここに「南無妙法蓮華経」の旗を立て引き返す。その後、小西行長・柳川の立花など西軍を攻め、九州での東軍勢力を拡大させる。




吉弘神社 下馬の松


石垣原の戦いで戦死した吉弘統幸を悼んで、当時の宝泉寺の憎が村民と共に遺骸を手厚く葬り祠を建立し松を植えた。杵築城の細川家の家臣も統幸の忠義をたたえ、ここを通る時は下馬せよと命じた。これが下馬の松である。更に大正十年石垣村有志によって墓所に公園を設け、神社を建立して吉弘統幸を祀った。これが現在の吉弘神社であり、吉弘公園である。大正13年1月に大分県知事、田口千里が枯れた松の跡に植栽。
この周辺の地名に「小字」下馬松が付く。

別府市大字鶴見字下馬松・・番地




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