油屋熊八翁


「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の名言で別府観光の祖、油屋熊八です。戦後別府観光の最大の功労者として頌徳碑も建立されている。熊八の功績と彼の実像は。
 しっとこを開くにあたり最初のページとして登場したかったのですが、遅くなりました。

油屋熊八

 油屋熊八は文久3年(1863)、愛媛県西宇和郡三崎村字佐田(現宇和島市)米問屋油屋正輔の長男として誕生している。
明治21年(1888)旧宇和島藩主、伊達宗城の側用人、戸田義成の娘ユキを迎え新しい人生のスタートした。
この年、市町村制が改正され、三崎町の町会議員にも選ばれた。

 明治24年、父が没した後、家業を見切り大阪で相場師として転出する。「常勝将軍」の名を馳せたが日清戦争後の経済状況に対応できず廃業しアメリカへ渡る。アメリカでの貧困的な生活を送り、物質的な富と精神的な富とを得るに至り洗礼を受ける。
 帰国後、再び相場師の世界にみを投じるが上手くいかず再起を期して別府を訪れる。このころの別府は日豊線の開通や、大阪航路の開設で賑わいを予感するもので、熊八も安住の地を求めていた時期ではないだろうか。


 「翁」
老年の男子の名に付けて敬意を表すのに用いる

「頌徳碑」
 別府公園
「油屋熊八像」
別府駅前
「旅人をねんごろにせよ」の
和文と英文

熊八像の側面



別府と観光宣伝

 熊八は別府を訪れると小さな旅館、「亀の井旅館」を創業する。木造の建築の二階部分を借り受けて開業したものだった。
大正に入ると旅館経営も軌道に乗り、広く別府を宣伝するため「別府宣伝協会」を立ち上げる。大正13年、市制施行に伴い「別府温泉宣伝隊」と改称した。
大正14年、富士山頂に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」の標柱をたてる。


地獄観光と循環道道整備

大正9年、昭和天皇が陸軍の演習視察のため大分県を訪問された際、帰路、別府を訪問され地獄見学をされる。当時、現在の通称「鉄輪線」はなく、亀川方面の地獄へ行くためには国道に下り、亀川新川を上がる道を進むことになっていたが、このことを契機に郊外の循環道路の整備が浮上し大正10年、現在の鉄輪線の道路の竣工しなる。

亀の井自動車株式会社創立と地獄遊覧バス

昭和3年、亀の井自動車株式会社を設立する。地獄観光のため開通した循環道路開通以来、各社の参入があり、しのぎを削るが25人乗りの大型バス4台を購入し地獄観光にのりだした熊八は女性ガイドの投入など他社を圧倒、主導権をにぎる。「七五調」のガイドは現在にも継承されている。

「ここは名高き流川 情けの厚い湯の町を 真直ぐに通る大通り 旅館商店軒並び 夜は不夜城でございます」

写真 堀千万人氏提供




 つづく

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