大友浜脇館


東別府の近くに浜脇中学があります。昔、大友家の浜脇館があったとされる場所です。時代は移り明治時代は墓地とし、大正時代は旧浜脇公園として、戦後の昭和は中学校として浜脇を一望できる高台。その歴史は。

浜脇公園

 昔の浜脇公園は、今の浜脇中学校のところにありました。その場所は明治43年頃までは墓地だったが、芝尾(中学の山手)に市営墓地として移転することになり、その跡地に浜脇町立公園が開かれました。大正3年頃に完成、桜が植えられ簡単な茶屋と遊具もあり、浜脇の町並みが一望できる場所で多くの人が訪れる名所だった。 戦後は浜脇中学校が建てられ、浜脇公園は現在の場所(国道沿い)に移転した。
 また、浜脇中学校の裏手に金毘羅山があるが、その山頂からの眺望はは別府随一の景勝地だったよです。また山の中腹には横穴墓群があり戦後、大学の学術調査も行われが、今は埋もれたり、崩れてしまった横穴も多い。

 旧浜脇公園 現浜脇中学

二階崩れの変

大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。

 1550年(天文19年)2月義鎮派は、大友館の二階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母らが死亡した。義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は家臣に擁立された義鎮が継承した。

この「二階崩れの変」での義鎮の関与は不明だがこの時、義鎮は浜脇館に幽閉された形で滞在していた。

浜脇館


浜脇中学正門 中学を下から望む石垣 中学内公園跡

石垣原の戦いの祭、大友義統はこの館を焼き払い立石に陣を構えたと言われている。
隣接地に「上の寺」と呼ばれる祟福寺があります。現在地へは1980年頃なので館とは無縁と思われます。
大友家、別府の関係はあまり記録がなく館跡は貴重な財産です。
大友義鎮(宗麟)の当主としての始まりは浜脇館からスタートしました。


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