ラクテンチ

別府に在住されている方なら、必ず一度は訪れた『ラクテンチ』、全盛期は流川通り12丁目まで入場する人の列ができていました。今回の紹介はラクテンチ開園以前の中世から近世までのラクテンチの土地はどういう変遷をたどったか、ちょっと見方を変えて紹介とます。

昔は朝見神社の社地

1196年、豊後・豊前の守護職として赴任した大友能直は、入国するとすぐに、鎌倉幕府の鎮守、鶴岡八幡宮の御勧請を志しました。
鶴ケ岡(現、ラクテンチを含む乙原地区)を社地と定めた大友家は朝見庄のうち千三百石を寄進し手厚く保護します。
1348年鶴見岳の噴火による災害で朝見神社は現在地に移転


朝見神社

近世は鉱山

温泉の湧くとこ金脈ありと乙原の山に目を付けた「木村久太郎」黄金の大地、夢づくりにかけた木村久太郎 1866年(慶応2年)鳥取県境港市生まれ。 彼は台湾の基隆(キールン)の金採掘で一財を成し、東京で鉱業会社を設立し「金山王」 と呼ばれた。 は明治36年、「別府金山」と名付け金山経営に乗り出します。
その後、温泉の蒸気に悩まされ大正5年に操業を中止しますが、諦めきれず大正12年に技師「山崎権市」を派遣し再開をはかるも温泉脈に悪影響が出ることで閉山となります。
しかし、山崎は眺望絶景の地の利を生かしてケーブルカーを使った遊園地建設を考案、スイスの技術を導入して急斜面に敷設することに成功、昭和4年ラクテンチの開園となります。


「べっぷ昭和園」も金山にかかわった別荘跡地です。要調査マーク

30度の勾配を上る
ケーブルカー

ラクテンチ

1924年(昭和4年)、「別府遊園」として開業。観光リフトや志高ユートピアを結ぶロープウェイなど事業を拡大するも経営難から2003年、岡本製作所に譲渡され再建をはかるも経営難は続き、新たな経営母体を模索することとなるがケーブルカーを保持するための鉄道法をクリアーできず、引き続き経営することとなった。
80周年を機にリニューアルされた遊園地も「ラクタンチ」の名称に戻し再起を期している。
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園景

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