千辛万苦の場

別府市中央公民館横に史跡「千辛万苦の場」の小さな二階建てが保存されています。

千辛万苦の場

幕末の混乱期、1865年藩内の対立から瀕死の重傷を負った、明治維新の元勲、井上門多(馨)は若松屋旅館(流川通り国際通りソルパセオ入口に存在していた)の離れの二階に身分を隠して滞在し楠温泉(現在は閉鎖され存在しない)で療養した。この建物は昭和8年に現在地に移転された。
1911年に再訪した際、若松屋に感謝し「千辛万苦之場」と名付けた。

・・以下記念碑の碑文の一節。

・・・・・候往事ヲ追懐シ明治四十四年五月別府ニ来り、若松屋ヲ訪ヒ曩ニ潜伏ノ室ニ入り、感慨無量即筆ヲ執り、千辛万苦之場ト書シテ廂欄間ニ扁ス。・・・・ 


  「千辛万苦」

つらいことや苦しいことをいろいろ経験すること。



再訪した際、若松屋にて
『別府市誌より』



井上馨

『長州藩時代』
尊王攘夷運動に共鳴し、江戸遊学中に御楯組の一員として高杉晋作
らとイギリス公使館焼き打ちなど過激な行動をとる。長州五傑の一人としてイギリスに密航するも国力の差を痛感し開国論に転じる。
第一次長州征伐で武備恭順を主張したため俗論党に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。(この傷の治療のため別府を訪れた)その後、長府功山寺で決起、藩論を開国攘夷に統一。

『明治新政府時代』
明治維新後は官界に入り財政に力を入れるが、司法卿・江藤新平
らに予算問題等で汚職を追及され辞職し実業界に身を置くも、伊藤博文の強い要請で復帰し、外務卿、外務・農商・内務・大蔵大臣を歴任。外務卿時代、鹿鳴館を建設し不平等条約の改正にあたる。
華族令で伯爵、侯爵に陞った。日本郵船・藤田組・旧三井財閥において、最高顧問になるなど長州系列の政商と密接に関係した事が快く思われず、世間から批判される。伊藤博文亡きあとは元老として政官財界に絶大に勢力を誇った。




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