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 B 存在者そのものの全体
〜無である。

 

a. 存在者そのものの全体

*時間的経過による無の出現と人間の自由

*スナップショットの数は 増大する傾向にあり

存在は 「開示する為の存在」であって、開示された存在ではない、存在現象は 超現象的な1つの根拠を要求する。

存在者の存在へ向ってではなく、この存在の意味へ向ってである。無は 論理的に言って、存在よりも、より後に来る。 

無が その存在を得てくるのは 存在からである。非存在は 存在の表面にしか存在しない。

存在の否定であるが故に、存在が そこに存する。

 

ハイデッカーあなたの作品は、もはや何かを描き出すのではなく、天と地のはざまに滞在させるのです。(芸空) 

神に、不安を与えるものがあるとすれば、それは神ならざるもの、全く非在、すなわち、無なのではなかろうか

「存在そのものが、其れの真理の中へ身を引く、存在そのものが、この真理の中へ自己を救い入れ、この救いにおいて 自己自身を隠す、

存在そのものが其れ自身の本質を隠しつつ守っているのである。存在者が全体に亘って、あらゆる見地において、無であることを意味する。

ニヒリズムの本質は 存在そのものが 無であるということである。

 

存在するものの存在は 最も身近に有るが、我々は それにきづかず、その傍らを通り過ぎる。 

そして、「神」を殺していると言う。(時)

我々の知識の構造 ― それがまとめられて1つの包括的な全体を形作る理論として、表現できるか否かは 勿論、

全体としての実在の織物が どのようなものであるかに依存している。

 

物理的に可能 ― 物理法則によって、禁じられていない事、

環境は それが多宇宙の何処かに存在する時にだけ、物理的に可能である。

仮想実在、なんであれ、指定された環境にいると言う体験を、ユーザーに与えるような状況、

レパートリー、仮想実在生成装置のレパートリーにその体験を与えるようにプログラム出きる環境の集合である。

物理法則は テユーリングの原理に従うことで、物理的物体が同じ法則を知る事を物理的に可能にしている。

このようにして、物理法則は 自分自身の了解可能性を規定していると言って良い。

 

物理的に可能な全ての環境の集合に どこまでも近いレパートリーをもつ仮想実在生成装置が、多宇宙の中に存在していると言うことなのだ。

抽象的な科学者による了解可能性を規定しているだけではない、

それは 物理法則をどこまでも良く理解する実体が、多宇宙の何処かに物理的に存在している事を含意している。蜃気楼その他の視覚的錯覚は その例であろう。

 

我々の足もとの地球が 実は 高速で複雑な運動をしているのに、(約 時速1700キロ)我々が それを静止していると体験する事だ。

さらに、実際には多数あるにもかかわらず、我々は 単―の宇宙しか体験せず、時に
1つだけ、意識的な自己という個別例しか体験しない事である。

だが、こうした不正確で人を惑わす体験は 科学的推論に反対する論拠にはならない。それどころか こうした欠陥こそ、科学的推論の出発点なのである。

 

「ある現象」が、「基本的」であると言うのは 世界を十分深く理解することが、その現象を理解する事にかかっている。(世界)

 

命が無いと考えられている物質でも、命の息吹が潜在し、開花の時を待っていると言えるかも知れません。

四次元以上の世界は 粒々、切れ切れの物質は 全く存在せず、同種のものとしか共振せず、全体が ひとつながりです。(聖)

 

アリストテレス『詩学』第5章記憶の役割をほとんど残さずに、事物全体が、同時に直観されると思われるほど、迅速に移動する事を、私は 学ぶであろう。

真なる認識は、直観でなければならない。単純なものについての直接的な把
捉である。

複雑な対象を一つの全体へ、言いかえれば、ある意味で単純なものへと還元する事が、その仕事である。

無時間的直観、事象の「全体」を一目で見通す事である

 

―デカルトの戦術―「事象の全体」への強い執着がある。 

デカルトの「枚挙」は 推論の全体を繰り返す事であり、一種の演奏のごときものである。

この全体性への希求は 作品に向かい合う態度を思わせるー悲劇のもつ静けさに通じている。

 

我々の次なる課題は この時間的構成の問題にある(作)

知覚的実在は 観念的実在と類似したものではないと言うことなのである。

あらゆる知覚は 一定の地平内で生ずると言うことであり、その世界の中で生ずると言う事になる。

知覚、地平、世界は はっきり認識したり、措定したりすると言うよりも実践的に 我々に対して示される。

 

つまり、知覚する主体とその世界との、いわば有機的な関係には 原理的に 内在と超越の矛盾が含まれているのである。

 

観念の確実性は 知覚の確実性に基づいているのであり、

知覚の経験が 瞬間の推移を我々に教え、かつ、時間の統一を与えている限り正しいのである。

完全な対象を自由に措定するところの知的な総合なのではありません。そうではなくて、それは むしろ一種の実践的な総合なのであります。

 

知覚においては <全体は 部分に先立っている>知覚される対象の統一を構成し、知覚の所与に意味を与える総合と言うものは 知的な総合ではありません。

それは 「転位の総合」だとフッサールと共に言いましょう。

 

地平の総合―見えない面は 別の地点からは見えるもの 対象は 実在的です。

対象は パースペクテイグ的眺望の不特定なー群の無限な総和 
( 隠れた者をあらわにする全て)として与えられるのであり、

その眺望の各々は 対象を包んでは いるものの そのどれも完全に捉えてはいないのです。

 

従って、対象は 私が位置する視点からは 歪曲された状態、偶発事ではありません。それは 知覚が「実在的」でありうるための代償なのです。

知的総合と言うものは このように主体によって完成されなければなりません。

実際に与えられている限りでのパースペクテイブ的諸層の若干のものに限定してしまうことも可能であり、

また、それと同時に、パースペクテイブ的諸層を乗り越えていくことも可能なのです。

 

知覚は 単にある人が、それを知覚し得る限りで存在するのです。(エフ)

現存への導きと宇宙への偏入、歴史哲学の原理として客観化されている。

事実性が意味するのは とりわけ 統一と秩序とのうちにではなく、秩序の内部での個物の開花と自己達成とのうちに、理想が認められると言う事です。

 

統一が、ただその内容的反映においてのみあらゆる事物の結合としてではなく、故郷として認識され意欲されるということであるのです。

全体の極端な安静、部分の極端な運動、それ故、再び諸対立の高揚と構成のうちの三様の対立であります。

 

視覚的な深い空間と巧妙な均斉、視覚的な陰影と巧妙な線、部分の運動と全体の安静、この様式の情調的特徴は 探求の苛烈さと見出されたものの豊富さであり、

現象の新鮮に弛緩したものと、全体の峻巌な総括とであるのです。

 

その一回生を本質とするような統一が可視的に生成すれば、それによって、既に達成された規準的なものは 

もはや、 経験で一回限りのものへと引き下げられることなく、ただ、その永遠の妥当性へと高められ得るばかりである。

 

芸術の究極の歴史的根拠は 経験的、歴史的連続体から どのような歴史的、超歴史的な類型学が離れている事が出来るよりもずっと離れている。

それは ずっと普遍的であり、美的価値の最も純粋な実現なのです。

 

第一には 1つの領域から、他の領域(あらぬもの)への諸対象と諸概念との超越であり、

第二には それらが、内在的であり続けること、(己自身の思考や想像によるものであって、その人のみの超越である)

それが 唯一の故郷として(あるものの存在)の固有の領域において、それらに与えられた概念的完成が達成されることである。(芸哲) 

 

知覚物は 実際に与えられている物を超えた何かを いつも内包している。知覚されるものの固有な明証、即ち、何ものかの現出は 現前と不在という。

この
2つのことを分かち難く結びつけていることを、我々は理解するからなのです。

 

知覚を知性の行為として取り扱うなら、知覚は 精神の視察である。知覚されたものは一つの観念に過ぎないとするならば、その世界は観念的存在となり、

同じ物の意志の疎通があると言う事です。

 

経験?「もし認められたような矛盾こそ、まさに意識の条件なのだとするならば 矛盾に対するこう言う非難は 決定的では無くなる。」(メルロ)のです。

 

主語的基体とは 絶対存在としての神であり、述語的基体は 積極的な意味で<無の場所>と呼ばれるべきである。(エフ)

 無は 充満と等しい、無限の中では 充満は 無と同じだ。 無は 空であり、充満である。この無あるいは充満を「プレーローマ」と名づける。

その中で、思考と存在は 停止する。不滅にて無限なるものは 何らの特性をもたない。

 

神と悪魔は 充実と空虚、生産と破壊によって区別「働き」神や悪魔よりも尚不確定のもの()

場所の論理の持つ意義は 実体論的思考から自由になることが出来た。

主語が基体であり、 絶対存在として全ての述語が そこから、導き出されると見なされる。

全ての実在を 述語的基体は 無によって根拠づけ、無の場所を有として 存在の欠如態としてではなく、無底にして豊かな世界として捉えることができるようになった。

 

場所の論理が 西洋的な有は 主語の論理と、少なくとも権利上、同等な資格を持っていることが 明らかにされたのである。

 

存在者の全体による驚きの念から立ち昇ってきて、普遍的な驚異、つまり、世界驚異から世界の智慧が出てくるのである。

分野と分野の全体は 原理的には、世界内部の構造なのです

 

プラトン、アリストテレスの言う 模倣の対象は あるものが、その様に現れてくる個的な象ではなく、

そのものの本来的な成り立ちの必然、存在を構成する諸形相の本来的な結合より、端的には 存在の必然に他ならない。

もし、ポイエーシスが、そのような本然
(フエシス)真相(アレーテイア)形相(イデア)存在(トオン)に関わりなく、個々の現象を その現れに即して、

模倣的に再現する事を志向するならば、結局のところ、ポイエーシスは 「現象の模倣的再現」となり、ポイエーシスは 「影像の模倣者」となる他はない、

かかる低次のポイエーシスにあっては 結局のところ、存在の現実は 作品化されえず。

視点を原因の側へ移して、人のドクサ
(思い)を越えて、

あらゆるものをその多様な現象形態において現実化しうる神の創造の神秘を見直すことが必要であるのかも知れない。

 

プラトン−(全体)から多(−の総体)への分析という方位を取る。 (岩ミ)

真に具体的なものは 自己の本質を含む存在者であり、全ての抽象的契機の総

合的積分によって生み出される全体性である。

 

存在と無の対立させる事は 両者の間に論理的な同時性を想定する。

全体を全体として考察するやいなや、この全体は 私のまなざしのもとに、無化される、

かかる全体は 存在しない。かかる全体は 存在しない為に存在する。

 

「哲学的意味における宇宙は 存在者そのものの全体のことであり、この全体は 一切の分野、部分、諸分野の全体を内に含んで包括している万物、

すなわち「存在しているもののすべてなのです」(エフ)

 

眼前にある生活世界の統一的連関の中にある事実であり続けるのです。()

 

絶対者を精神として語る考え方のうちに表現されている。この「精神」というのは最も崇高な概念であり、

我々に近い時代とその宗教とに属する精神的なもののみが 現実的なものである。

それは まず、実在としては それ自身においてあるもの、すなわち、即自的存在である。

他方、特定の関係の中に身を置き規定されているもの、多としてあり、自分に対してあるもの、すなわち他自的存在である。

具体的なものは それが自分を分割し 非現実的なものとなすことによってのみ、自ら運動するものとなるのだからである。

 

無は 存在を根底としてしか自らを無化することができない。

無が与えられるのは まさに存在のふところにおいてであり、存在の核心においてであり、一匹の虫としてのことである。

 

自分の前に置かれている存在のかたまりを たとえ一時的にせよ 無くしてしまう事は 人間存在にとって不可能である。

 

人間が変えうるのは この存在と自分との関係である。個別的な1つの存在者を局外に置く事は この存在者に対する関係において自己自身を局外に置く事である.

人間は この存在者から脱け出て 手の届かないところとなり、存在者は 人間に働きかける事が出来ない。

人間は 自ら無のかなたに 引き退った のである。

人間を孤立させるような
1つの無を分泌する事の出きる                          

 この可能性に デカルトは 
1つの名を与えた。これが自由である。

 

無の出現を条件付けているのは 人間の自由である。無化の条件として考えられるのは 時間的な経過である(サ)

「不安の対象は 世界そのものであるということを、現象的には 意味している」(ハ
324

 

「現象は 本質を隠しているのではなく、本質をあらわにしている。存在は『開放するための存在』であって、開示された存在ではない。

存在現象は 超現象的な一つの根拠を要求する」(サ)

 

 「物が見えてくる過程を現象学より一層深いところで、どのように捉えようとするのか、

それは 存在者が そこに見えるためには 見るものが いかにしても世界の内に在るのでなくてはならない」(メ)

 

ハイデッカーは 全てのものが姿を見せ、立ち現れることを可能にする。

明るみを世界と呼び、その世界の現成と同時に、それら全てを引き戻し、かくまおうとするものとして、現成してくる基底を大地と呼ぶ、

己を開くものとしての世界は 己を閉ざすものを何一つとして許さないのである。

必要なことは 地平的全体性を解明することである。
(感メ)

 

語りつつ分節する事のうちで分節されたもの、その物を我々は 意義全体と名つける。

或ることに関して多弁をろうしたからとて、それによって、了解内容が更に深まると言う保証は いささかもない。 その反対なのである。

「意義範疇」の根本部分は 陳述としての語りに定位している。

この存在連関の存在様式を 実存論的、存在論的に捉える事が、いまや肝要なのである。

世界内存在の一つの実存論的様態がタイ落という現象において,証拠立てられている。

タイ落しつつある世界内存在は 己自身にとって誘惑するものであると、同時に、安らぎを得させるものなのである。

安らぎは 静止のきかない活動の内へと駈り立てるのである。世界にタイ落していることは 今や、決して休止することがない。誘惑的な安らぎは タイ落を高める。

タイ落は 一つの存在論的な運動概念である。開示する情状性としての機能を 方法的に果たす現象が根源的であればあるほどタイ落は 高まるのである。()

不安がる事は 情状性として、世界内存在の一つの根本様式である。

開示する働きと開示されたものとの実存論的な自同性 しかも、開示されたものにおいて、世界が世界として開示されており,

内存在が単独化され、純粋に被投されたことが存在し得るとして、

開示されて入ると言う風な実存論的自同性は 不安という現象で持って、一つの際立った情状性が学的解釈の主題に成ってはいる。

ということを判然とさせる。

 

現存在と言うこの存在者の基礎的な存在論的な諸性格は 実存性、現事実性、及びタイ落している事である。

1つの根源的な連関が 生き生きと活動している。この連関が構造全体の探求されている全体性を成しているのである

実存する事は 常に 現事実的に実存する事であり、事物的に存在している変移なのである。

 

真理は 全体である。全体とは 自己の展開をとおして、自己を完成する実在にほかならないのである。(岩現)

 

一切を永久に見て取れる中心点の回りに設計された構築物として、考案した監獄の仕組み、一望監視装置<権力の眼>

近代社会における規格化の権力ならびに知の形成に関する各種の研究にとって、この書物は 歴史的背景として、役立つはずである。

分散と細分化 すべては 混じり合い、入り組み、つながり合い、合致し或いは 重なり合う。

 

しかじかの現象を 時間の中に位置付けようとする、しかじ かの現象をそれに意味を与えてくれる。何らかの連続性の中に含みこませようとしたりする。

 

唯物論の立場では、経験的事実から出発して、思考によって獲得された結論が、客観的実在の存在様式と合致し得る事を認める。

このように、客観的実在と合致する観念のことを 唯物論と言う。

 

ヘーゲル左派とマルクス主義は ヘーゲル哲学から、その観念論的形而上学的性格を取り除いてゆこうとする左派とに分裂したものである。

よって、ヘーゲル哲学とは 別の考え方である事を認識しなければならない。

 

絶対者とは たんに歴史的有限的世界の全体であり、特に 絶対者と呼ばれるべき意味をもたなくなってしまうはず、と言わねばならない。

ヘーゲルの自由の実現という目的法則は 観念論であるが マルクスの唯物論は 生産力と生産関係との間の矛盾によって 生ぜ占められるということで 

ヘーゲル左派と合体して 唯物史観的法則に変移していったようであり、ここで言う唯物論は マルクス主義とは異なるものである。
()

 

真理とは 外界を正しく反映、模写している意識の内容、すなわち、観念である。(自哲)

多宇宙は 複雑な多次元のジグソーパズルなのである。

多宇宙では 変種はさまざまな比率で確かに存在し、それらは 確定的な決定的法則に従っている。 

まぎれもなく、別個の形のスナップショットの数は 増大する傾向にあり、ほとんど減少しないからだ。

この性質は 熱力学の第二法則に関連している

この法則は 科学的あるいは 動力的なポテンシャルエネルギーのような秩序あるエネルギーが秩序の無いエネルギー、

つまり、熱に完全に転換される事は あり得るが、その逆のことは 決して起こらない。

と述べている、ミクロ的に見れば ランダムな運動である




                                              



 


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