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E 芸術は 死せるものを、 しっかり捉える事は最大の力を 必要とする
*自分の自由を意識するのは 不安においてである。
多くの物理現象が 死すると言う平等の原理によって、支配されているのである。
これに対して、生物現象は 生まれて直ぐ死するものもあれば 100才以上も生きるという 生の不平等の原理に従っている。(か)
死をもたらす物を、生をもたらすものとする。
死は まさに予行演習をする事もできない一期一会の重大な人間的経験なのであり 生の終焉である。
死について予想される肉体的な苦痛や心の不安、動揺の原因になるもの、恐いからと言って、
他のなにものにもすがり様のない絶体絶命の中でなにか自分に残された余命を 少しでも最後の最後まで、充実して生きぬく以外に抵抗しようのない、
有無を言わせぬ最大の不条理などとして、死を考察する余裕をも与えられず 私から奪うような刻々と切迫してくる実存的な現象となる。
他人事と言うものではなく、正に すがり様のない限界状況と言える自己自身の死と主体的に対決すればするほど、
私にとって 真に価値あるものが死を超えて不滅なる(永遠)への帰入が重く切実に実感されるはずである。
生→死→新生→生→死は 生を超越し、その死の内在化を介して生が、今度は 死を超越し、それによって、永遠へと自己超越する。
死の超越に基つく生の創造は より手前の小さな諸創造が 全てそれに基付けられる。
根源的な創造であり、また、その生の創造そのものによって、死が超越される。人間のなす創造のうちで、死の超越ほど大きな超越はない、といえる所以である。(岩生)
死を超越すると言う事は 死との対決であり それは 生と言う事になる。生の充実こそ、死の超越であり、
生と言う事は ただ生きているということではなく、ある事に対するより普遍的探求や研究に尽力する事ではないだろうか。
生物やあるものの「分割された諸規定のあの非現実性を死とよぶとして、死こそもっとも恐るべきものであり、
死せるものをしっかりとらえることは 最大の力を必要とする」(ヘ)、
「死に耐え、死のなかで自分を維持する生が精神の生である。主体は 真実の実体なのである。
自分が媒介そのものであるところの実体である。
死へとかかわる本来的存在を己の固有な本来性の可能な実存的様態性として、己のうちに蔵しているのである。
この「連関」を 現象的に判然とさせることこそ、肝要なのである。即自の最後の勝利とは すなわち、死である。
死は 全体系の過去化による時間性の根本的停止であり、即自による人生全体の奮回である。生誕と死とは 現存在にふさわしく「連関しあっている」
気遣いとして、現存在は「間」なのである。死に向って自由である事のみが、現存在に端的な目標を与え、実存を その有限性の中へと突き入れる。
人間が 自分の自由を意識するのは 不安においてである。
「将来の前における不安」「過去の前における不安」この不安、それが私である。(サ)
バタイユは「1つの体験の空間を、つまり、語る主体が自己を表現する代わりに 我が身をさらし、
我と我が有限性に出会い、1つ1つの言葉の下で、我と我が死に送り返される破目になるような体験の空間」を、恐らく規定しているのである。
「バタイユは、今世紀の最も重要な作家の一人だ。(ミフ)
『臨床医学の誕生』この本の内容は 言葉、空間、及び、死に関するものである。さらには まなざしに関するものである。
いける闇は 死の明るみにおいて 消え去ってしまうのである。
「生、病、死、この三つは 今や、技術的にも概念的にも三位1体となる。近代文化における個人性の経験は 死の経験に結びついている。
「神の死は 人間の死において、完了するのである」神の死以上に ニーチェの思想が告知するもの、それは その虐殺者の終焉である。